2010年1月15日

小沢一郎

小沢一郎の土地購入問題

検察の捜査拡大の真相は??

1. 官僚 vs 政権 の主導権争いの最後の聖戦か?!

2. 民主党が自民党を完全に潰すための大戦略か?!


小沢から陸山会に渡った4億円のでどころが、胆沢ダムに纏わる献金出はないか??

という疑惑だが…胆沢ダムの建設に小沢が絡めたのか?!

小沢は野党で、胆沢ダムの法案を通したのは自民党で、小沢へ贈与しても何の力もないのではないか??


検察も官僚であり、官僚主権から、国会に主権が移るのを阻止する為の民主党への揺さぶりか…

または民主党が自民党の資金源を潰すために仕組んだ独り芝居なのか?!

これからの動向に注目したい!

2009年11月17日

日米首脳会談

30人が参加した。

オバマ大統領初来日で、鳩山首相とのマンツーマン会談が実現しなかったことで、

普天間基地移設問題
給油問題

などの具体案に付いて踏み込めなかった。

しまいに、鳩山首相は、オバマ大統領を日本に残し、G20首脳会談に向けて、ひと足先にシンガポール入りした。


さて、米国政府はこの対応をどう受け取ったか?!


米国のパシリ日本のご乱心と受け取ったか?!

鳩山政権の自民党政権と全く異なる対応…まさに対等な関係を築く為の布石だったのではないか?!


米国の反応が楽しみ。

いずれにしても米国は日本を切れない。

恐らく、APECの軍事基地は日本に置くのが適当だから…

2009年10月15日

鳩山政権の財源

日経日刊記事に

来年度予算一般会計、概算要求最大、90兆円超、公約実現へ膨張。

2010年度予算の概算要求で、国の財政規模を示す一般会計の歳出総額が90兆円を超え、過去最大の規模に膨らむ見通しになった。民主党が衆院選マニフェスト(政権公約)で掲げた目玉政策を実行するためだ。政府が9月に閣議決定した10年度予算編成方針では、各閣僚が09年度当初予算の規模を下回る減額要求を提出するよう求められていた。税収が落ち込んでいるにもかかわらず、歳出拡大の圧力が強まっており、財源の手当てに不安が残りそうだ。(2009/10/15)

さて、特別会計からいくら捻出できるのか?!


その他の参考記事
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地方財政健全化法 半世紀ぶりの自治体財政の再建制度の改定に伴い、今年4月全面施行された。財政状態を一般会計だけでなく、特別会計や第三セクターなどを含め連結ベースで把握するのが特徴。従来の制度ではいきなり財政破綻になったが、その前に「イエローカード」を出し、早期に財政健全化を促す。(2009/10/05)

藤井裕久財務相はある決断を口にした。「ストックの埋蔵金を(財源に)使うことはあり得ない」財源「退路」断つ ストックの埋蔵金とは特別会計の積立金だ。各省庁が管理する特別会計について塩川正十郎元財務相は「母屋(一般会計)がおかゆをすすっているのに、離れ(特別会計)ではすき焼きを食っている」として、無駄と不透明さを指摘した。(2009/09/20)

2009年10月13日

赤坂太郎 文藝春秋11月号

「鳩山・一郎」政権の危うい均衡
http://bunshun.jp/bungeishunju/akasakataro/0911.html

鳩山が小沢に見せた意地。「反小沢」の橋頭堡は財務省と外務省だ――

「鳩山由紀夫君を衆議院規則第十八条第二項により、本院において、内閣総理大臣に指名することに決まりました」
 九月十六日午後三時前の衆院本会議場。議長に就任したばかりの横路孝弘が甲高い声を張り上げた。最後列に座っていた民主党代表・鳩山由紀夫が立ち上がり、ぎこちなく二度おじぎをすると、議長から見て右側の「与党席」につく民主党議員から歓声が上がった。

 長く続いてきた自民党支配が、あっけなく崩れた歴史的瞬間だった。

 政権発足以来、鳩山新政権は、矢継ぎ早にニュースを発信している。八ツ場(やんば)ダム建設中止を宣言。生活保護の母子加算復活を表明。そして鳩山は二十三日、ニューヨークでオバマ米大統領との初の首脳会談に臨んだ。インド洋での給油問題や在日米軍再編見直しなどの懸案は棚上げしたままではあるが「バラク」「ユキオ」の関係をつくることには成功。祖父・一郎、父・威一郎譲りのしたたかな外交術の片鱗を見せた。報道機関の内閣支持率調査も軒並み七割を超える。表面上は順風満帆の船出だ。

 だが、八月三十日の衆院選から政権発足までの十八日間をみると、民主党内の複雑な権力構造が浮かび上がってくる。

 鳩山と新幹事長・小沢一郎の関係は一九九三年以来、基本的には変わっていない。当時の細川政権で小沢は与党新生党の代表幹事、鳩山は官房副長官だった。この頃の鳩山は、簡単に言えば小沢の「怒られ屋」だった。

 当時、小沢と官房長官・武村正義が激しく対立。武村は記者会見などで小沢の考えと違う発言を繰り返していた。小沢は決まって「なぜ、あんなことを言わせるんだ」と鳩山を怒鳴りつけた。その年の十二月、鳩山の父・威一郎が肺炎による心不全で他界した。多忙ゆえ十分な看病ができなかった無念を感じていた鳩山は、後日知人にこう打ち明けている。

「言うまでもなく父の死と小沢さんの私に対する態度は全く無関係なのだが、どうしても関連づけてしまう自分がいた。だから私の小沢観は、負から始まっている」

 小沢は鳩山にとってそれほど絶対的な存在だった。以来、十六年経つが、二人はいまだにこの上下関係を引きずっている。例えば人事をめぐり二人で会談する際、小沢を党本部八階の代表室に呼ぶのではなく、六階の役員室にいる小沢のもとに自ら出向くこともあった。ここから、祖父の名と同じ「鳩山・一郎」政権づくりがスタートしたのだ。

■「反小沢」分断作戦

 新政権人事の中でも「小沢流」と関係者をうならせたのが、衆院議運委員長・松本剛明の人事だ。松本は小沢に近いとはいえない。これまでは岡田克也、野田佳彦という「反小沢」側の、ホープだったが、昨年九月、民主党代表選に出ようとした野田を止めたことで、野田との関係がこじれた。その松本を小沢は議運委員長に起用したのだ。

 小沢は、このポストに強い思い入れがある。一九八三年、まだ四十一歳だった小沢を田中角栄が「一郎、国会のルールをきちんと覚えろ」と議運委員長に据えた。真面目に二期務めた小沢は、その後、権力の階段を上っていった。そのポストに松本をつけたことは、小沢が将来のリーダーとして松本を認知したことを意味する。もちろん「敵の敵は味方」という発想で、反小沢サイドを分断させる狙いもあったのだろう。

 閣僚人事では国家公安委員長・中井洽(ひろし)、農水相・赤松広隆らが「小沢人事」とされる。反小沢勢力からは行政刷新担当相に仙谷由人、国土交通相に前原誠司を就けて批判をかわす一方、小沢が最も警戒感を持つ野田は入閣させなかった。

 もっとも、一連の人事は小沢が細かく指示したわけではない。鳩山が、小沢の思いを忖度して決めたというのが正確だろう。衆院議長人事も当初、元副議長・渡部恒三が有力だったが、小沢の意を受けた周辺が横路に舵を切った。

 横路が議長就任を渋り調整が難航する中、暗躍したのは参院議員会長・輿石東(こしいし・あずま)だった。人事が大詰めの十五日、輿石は数人の記者を連れて衆院議員会館の横路事務所を訪ねた。そこで、小沢に電話をかけて横路に受話器を渡した。小沢と輿石の連携プレーの前に、横路はその場で事実上「陥落」。議長就任が決まった。

 鳩山が小沢の言いなりにならず、意地を見せた面もある。藤井裕久の財務相起用だ。藤井は、鳩山の父・威一郎が大蔵事務次官の時、下で仕えた縁がある。鳩山も藤井に信頼を寄せる。だが小沢は、西松建設からの献金事件で窮地に立つ自分を藤井が守ろうとしなかったことにわだかまりを持っている。しかも、いいにつけ悪いにつけ秘密体質を持つ小沢にとって、既に財務相就任が決まっているかのように連日メディアに登場する藤井が面白くなかった。

 だが、それを承知の上で鳩山は「藤井財務相」を貫いた。鳩山を知る古参議員は「うまくいかなければ、自分が辞めればいいという、開き直りが鳩山にはある」と解説する。鳩山ほど議員バッジに執着のない男も珍しい。九三年六月十四日、当時の宮沢喜一首相の私邸に同僚たちと駆けつけて政治改革の実現を迫った時、「政治改革が実現しないなら、議員を続ける意味がない」と言って宮沢の目の前でバッジを外して見せた。さらに翌九四年、自社さ政権誕生にあたり、首相になることを渋る社会党委員長・村山富市に対しても、バッジを外して説得した。

 他の議員がやれば、ただのパフォーマンスと映るだろう。だが、普段は優柔不断に見える男がまなじりを決して決意を示す姿は、それなりに迫力がある。今回も、その片鱗を見せた。

 一方、岡田、野田ら「反小沢」陣営は、今回の人事でどう動いたか。岡田は幹事長続投を希望していた。小沢が衆院選の大勝で増殖する小沢チルドレンを背景に民主党を私党化するのを避けるには、自分が党でにらみをきかせるしかないと考えていたのだ。

 鳩山から外相打診の電話を受けたのは九月四日夜。しかし、岡田は「考えさせてほしい」と即答を避
けた。外相は要職であるのは間違いないが、激務で日本を留守にすることも多い。党に目配りするのは難しい。岡田にとっては好ましからざる提示だった。岡田は幹事長続投が無理だとしても、環境相など軽めのポストにつく可能性を探った。だが、人事権者の意思を曲げることはできなかった。

 十四日、岡田は党本部の幹事長室を引き払った。この部屋は十五日からは小沢が使う。岡田は、部屋に飾ってあったカエルの置物を持ち帰った。

「またカエル」

 真面目が売り物の岡田には珍しい駄じゃれだが、この置物に「アイ・シャル・リターン」の思いを込めたのだろうか。

 入閣有力と言われながら外れた野田。組閣名簿が発表されて間もない十六日夕、彼の携帯が鳴った。

「うちに来てくれないか」

 声の主は藤井。財務副大臣就任の要請だった。「反小沢」の野田を副大臣に招き入れれば、ただでさえ微妙な小沢との関係がより面倒になる。それを承知の上での誘いは、藤井が野田の後見人を買って出たということだ。それがうれしかったのだろう。野田はその場で快諾した。

 この前日の十五日、六本木の料理屋「季菜」で野田グループ「花斉会」が会合を開いた。最近、花斉会は離脱者が続いていたが、この日は初当選も含め約三十人が姿を見せた。存在感を誇示するには十分な数字だ。

 藤井・野田の財務省と、岡田の外務省。霞が関に並ぶ二つの建物が、当面は「反小沢」の拠点となる。外務省の副大臣には、野田側近の武正公一と、こちらも「反小沢」の福山哲郎が就いた。

 人事をめぐる攻防は、年内に第二ラウンドがあるかもしれない。民主党は秋の臨時国会で、国家行政組織法などを改正して副大臣、政務官の数を増やす準備を進めている。そして、これに併せて内閣法なども改正して現在十七人以内と定めてある閣僚の数も増やそうという構想がある。実現すれば、新しい閣僚が誕生する。そこで選ばれる顔触れによって鳩山内閣の性格は大きく変わる。

■参院選での小沢の秘策

 内部に波乱要因を抱えつつも危うい均衡を保つ民主党だが、対外的には高い支持率を背に来年の参院選で勝ち、衆参両院での過半数獲得を目指す。その陣頭指揮に立つのは、やはり小沢だ。

「オレの頭の中は、もう参院選だけだ」

 小沢は最近、党本部を訪ねてきた側近議員にこう伝え、さらにその“秘策”の一部を語っている。
「二人区で二人立てようかと思う」

 参院選は一人区から五人区まであるが、十二道府県ある二人区は、自民、民主が一議席ずつを分け合う事実上の無風区だった。ここに狙いを定めているのだ。

 二人区に二人擁立して自民党候補も含めた三人で議席を争う。一人は確実に当選するし、ひょっとしたら二議席独占できるかもしれない。候補者はたまったものではないが、小沢は涼しい顔で「自民党はそうやって強くなったんだ」と言ってのけた。

 側近は、さらに小沢らしい戦術を明かす。「二人目の候補を自民党から引き抜くこともある」。

 八月三十日の衆院選で、自民党の大物議員は次々に議席を失った。その落選組を、参院選の民主党候補として迎え入れる離れ業だ。改選を迎える現職が従来の民主党支持層を固め、二人目が自民層に食い込めば二議席独占の可能性はますます高まるという計算だ。

 二人区の道府県出身の落選組には、福島の根本匠、茨城の丹羽雄哉、新潟の稲葉大和、長野の小坂憲次、兵庫の井上喜一、広島の宮沢洋一、福岡の山崎拓、太田誠一などの名が次々とあがる。もちろん過去の経歴、地域事情からすれば簡単にくら替えすることはできないし、今のところ小沢サイドが彼らに秋波を送っている形跡もない。だが、ベテランの域に達している彼らがいつあるか分からない衆院選を待つのはつらい。来年国会に戻るチャンスがあればリスク承知で考える可能性はある。特に小坂、太田は自民党離党の経験もある。

 民主党は公明党にも楔を打ち始めている。「弱者の味方」を標榜する公明党は、子育て世代への支援に熱心だ。そこで民主党は臨時国会に、子ども手当導入に向けた関連法案を提出、公明党に賛否を迫る構えだ。ここで公明党が賛成することになれば自公共闘は瓦解に向かう。これは自民党への背信を意味するが、公明党幹部は、既に腹を固めたように「連立与党はあるが、連立野党というものはない」と言い切る。公明党が自民党との選挙協力を見直した場合、参院選に向けて自民党は決定的なダメージを負う。

 さらに気になる情報もある。小沢と参院自民党のドン・青木幹雄の接近だ。二人は自民党旧竹下派で同じ釜の飯を食った仲。一九九二年の同派分裂で袂を分かったが、その後もたまに日本酒を酌み交わしてきた。互いに口が固く、約束はきちんと守ることで認め合っている。その二人が連絡を取り合う頻度が高まってきているというのだ。

「鳩山が、政治献金の問題などで行き詰まった時、自民党参院議員・舛添要一を『ポスト鳩山』とすることで一致したらしい」という噂も駆けめぐり始めた。自民党の実力者を一本釣りして首相候補にするという手法は小沢の常套手段。舛添が早々と自民党総裁選への不出馬を決め込んだことも、この噂を増幅するきっかけとなった。

 その自民党は、九月二十八日、谷垣禎一を新総裁に選んだ。総投票数の六割に達する圧勝だった。「平時の谷垣」と言われた男が、結党以来の窮地を救うことができるかは疑問だが、谷垣自民党も小沢の動きに目を光らせながら反転攻勢を目指す。

 その小沢は九月二十日から二十七日まで英国を訪問した。元秘書で衆院議員に返り咲いた樋高剛を引き連れた外遊の詳細は明らかになっていないが、英国の政党関係者と会談し「政府と党が一元化しても党の重要さは変わらない」ことを理論武装してきたとされる。

 だが、小沢には、十五年以上前から「お忍び」で英国を訪ねた時は心臓の治療をするという「定説」もある。本人は衆院選後「最近体調がいい。(一九八九年に)自民党幹事長になった時以来だ」と言っているというが、この男の場合、いつまでも健康不安説はつきまとう。万一、倒れることがあれば政界に大激震が走る。そのような憶測が出ること自体、小沢の神秘性を増しているともいえるのだが……。(文中敬称略)

2009年9月18日

鳩山内閣

ついに始動しましたね!

今日の日本経済新聞(日刊)に、組閣の内容と所信表明がありました。

「国民の心と接しているのは政治家だ。その気概を持ち、国民のさまざまな恩を受け止め、大きな船出をしたい。」

「いろいろな試行錯誤の中で失敗をすることもあると思う。国民には寛容をいただきたい。まだ未知との遭遇で経験のない世界に飛び込んでいく。・・・国民が辛抱強く新しい政権を育ててくれれば幸いだ。」

読んでて思わず、目頭が熱くなる。

55年体制の崩壊。
GMの破錠
リーマンブラザース、シティバンクの破錠。

これらは、
人間をないがしろにしたマネジメントシステムの崩壊。
護送船団方式など一部の既得利益を優先する政治の崩壊。

企業、公共などを優遇していた時代から、民主党のマニフェストにあるように
家庭、個人を重視する政策へと、社会の底辺を重要視する、前代未聞の政治が始まった。

2008年から2010年にかけ、世界・日本は、本格的に21世紀に突入し、激動の新世紀を迎え、個人の存在がとても大事になってきたと思う。

赤坂太郎 文藝春秋10月号

麻生が招いた自民党「終戦の日」
http://bunshun.jp/bungeishunju/akasakataro/0910.html

「地上戦」で自民党を焼け野原にした小沢の次なる仕掛けは何か?――

「自民党に対する積年の不満をぬぐい去ることができなかった。その責任を負う定めにあったと感じている。宿命と思って甘受しなければならない」

 八月三十日、大物議員の落選を伝える速報が次々とテレビ画面に映し出されていくなか、ようやく自民党総裁辞任を表明した首相・麻生太郎は、大敗の原因を「積年の不満」だと言明した。自らの存在が最大の敗因だったという事実を、まだ認められないでいたのだ。

「麻生が数ポイント差に迫られている」

 開票前の三十日夕、首相官邸に寄せられた民放の出口調査の情報は、官房長官・河村建夫ら側近を驚愕させた。さすがに「現職首相の落選」に備えたシミュレーションは行われなかったが、河村らはマスコミ各社からの情報収集に血道を上げた。そして、「民主大勝、自民大敗」の情勢を伝えるために公邸入りした河村に続き、午後八時からの開票直前には幹事長・細田博之も自らの辞意を伝えるために公邸に入った。

「ゲームオーバーだな。しかし自民党の基盤である地方組織が残っている。これをきっちりと強化していかなきゃならん。総裁選でも、地方組織をかませていく必要がある」

 麻生は河村と細田にこう語った。総裁選は特別国会後に行い、首班指名では自民党議員に「麻生」と書かせる算段だった。そして、二人を唖然とさせたのが、麻生の次の一言だった。

「総裁選に手を挙げる者がいなければ、俺が立候補してもいいぞ」

 漢字だけではない。最後の最後まで、麻生は空気が読めなかった。

 民主三百八、自民百十九―。

 大物議員や元閣僚が相次いで議席を失い、麻生の盟友の前財務相・中川昭一、総裁特別補佐・島村宜伸も永田町に帰還できなかった。まさに焼け野原だった。

 何度も解散の時期を逸し、迷走を繰り返した末の麻生の「玉砕解散」が、自民党に「終戦の日」を迎えさせたのだ。

 予兆はあった。八月十日、名古屋に本社を置く中日新聞に載った情勢調査。中部地方九県の五十一の小選挙区のうち自民党が優位に立っているのは四選挙区だけという衝撃的な内容だった。自民党選対の関係者は「中日新聞には岡田克也幹事長の弟がいる。民主党応援団だから」と嘯(うそぶ)き、恣意的な調査だとして真剣に受け止めようとしなかったが、「愛知、静岡全滅」という情報は候補者同士の携帯電話で瞬く間に全国に広がった。

 特に知名度、人気ともに抜群だった消費者行政担当相・野田聖子が民主党の新人候補に負けているという情報は驚きを持って広まった。野田陣営は「政権交代が必要かどうかを聞いている。誘導的な質問だ」と選対同様の受け止め方をしたものの、応援スケジュールを絞るなど運動計画を組み直さざるを得なかった。

 自身も劣勢とされた元首相・森喜朗は十一日、出演したネットサービス「ニコニコ動画」で、「名古屋が本社のブロック紙は『自民党が全部負ける』と書いた。こんな失礼な新聞はない。『そうあってほしい』という希望だ」と焦りと怒りを中日新聞にぶつけた。

 森に根拠がなかったわけではない。自民党が七月三十一日から八月二日にかけて行った情勢調査では、確実に獲得できる議席が「小選挙区約百十、比例約四十、計約百五十」と、一カ月前の前回調査から小選挙区で約四十も上積みしていたからだ。強固な後援会組織を持つベテラン議員の伸びが大きく、民主党新人で元薬害肝炎訴訟九州原告団長・福田衣里子に引き離されていた元防衛相・久間章生もキャッチアップしていた。個々の結果は派閥を通じて各候補者に伝えられ、「組織戦を展開できる自民党が回復する」という希望的観測を生んでいたからだ。

 麻生も同様、いやそれ以上だった。

「民主党は公約の財源を示せていない。安全保障問題も説明できていない。押せ押せで行こう」

 十四日午後、自民党本部。ともに選対本部長代理を務める細田、前選対委員長・古賀誠と打ち合わせをした首相は、「攻め」の姿勢で臨むと宣言した。表情は高揚していた。

■大本営発表

「国旗を切り刻むという行為がどういうことなのか、とても悲しく、許し難い行為である」

 公示前日の十七日に行われた主要六政党の党首討論会の最終盤、麻生は民主党の集会で引き裂かれた日の丸でつくった党旗が使われていたことを持ち出し、民主党代表・鳩山由紀夫に強く謝罪を求めた。自民党支持層を呼び戻すには保守色を強めるしかないと「民主党と労働組合の革命計画」「日本人尊厳喪失進行中」など、ほとんど怪文書のようなパンフレットを配布させたり、遊説先の聴衆に日の丸を配る「愛国作戦」を展開していた麻生にとって、もってこいの敵失だった。得意満面の麻生は「あの話受けるんだよ」と、この後も盛んに遊説先でこの「日の丸引き裂き事件」を取り上げた。

 自前とはいえ上昇傾向になった情勢調査結果、そして愛国作戦の反応のよさに、麻生、細田らは本気で「自民二百十五議席、公明三十議席で与党過半数確保」を目標に据えた。

「自民党支持率が反転上昇を始め、民主党支持率は、先月末に頭打ちとなって以降、下落を続けており、相手を捉えることが可能な情勢となった――」

 十七日夜、自民党は「決戦! 自民党選対通信」を各候補者の事務所にFAXで一斉送信した。負け戦の戦果を針小棒大に宣伝する「大本営発表」のような内容だった。実感とほど遠い内容から、党本部に根拠を問い合わせる候補者陣営も出てくる始末だった。

 しかも、その大本営には指揮官すらいなかった。幹事長・細田から指揮権を譲り受けたはずの古賀が、解散前に選対委員長職を一方的に辞任してしまったにもかかわらず、細田はその空白を埋めようとしなかった。解散後、軍資金配布にあたり重点区への傾斜配分を求める声を無視し、一人一律二千万円を候補者の資金管理団体や政治団体に振り込んだが、その通知も行き渡っておらず、数日間、入金の事実を知らない候補者さえいた。司令塔がいないため、選対、政調、総裁室がバラバラに資料を送付、整理されない大量の資料に混乱した候補者からの苦情が殺到し、八月上旬に党本部が「ご迷惑をおかけしました」という謝罪の言葉を入れた文書を配布する一幕もあった。

 そして、公示日翌日の十九日の夜――。

「民主が三百議席だって?」

 朝日新聞が翌日付の朝刊に掲載する情勢調査の結果が麻生、細田ら党首脳部に伝えられた。麻生、細田とも調査対象が三百小選挙区のうち百五十である点に着目し、「正確なものではない」と努めて冷静に受け止めようとしたが、全選挙区を調査した読売、日経が「民主、三百議席超す勢い」などと続き、毎日は「三百二十議席超す」と追いかけた。極めつけは、民主党の候補者数三百三十を上回る「三百三十八」という“理論値”を叩き出したNHKの調査結果だった。

 まるで自民党本部の上空に原爆が投下されたかのような衝撃だった。反麻生を標榜していた候補者は「首相は入院して欲しい」と吐き捨て、親麻生の候補者からも「選挙後に引退すると言って欲しい」との声が漏れるようになった。要請していないのに日程を入れられた首相遊説を何とか断れないかと、県連幹部に相談する西日本の若手候補もいたほどだ。

 そして、投票日の朝を迎えた。

「日本を壊すな。」

 その日の全国紙朝刊に掲載された自民党の全面広告。日の丸を下地に「偏った教育の日教組に、子供たちの将来を任せてはいけない」「信念なき安保政策で、国民の生命を危機にさらしてはいけない」と訴える、最後の愛国作戦だった。実は、このフレーズは企画段階で「共感を呼ぶ広がりがない」として見送られていたのだが、あまりの劣勢に封印を解いたものだった。まるで「民主党は鬼畜米英だ」とでも言わんばかりだった。

 もはや揺り戻しは期待できなかった。

■「小沢衆院議長」情報

「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます」「今の世の中、右も左も真暗闇じゃござんせんか」

 選挙戦もまだ序盤の八月五日夜、民主党代表代行・小沢一郎は東京・赤坂にある行きつけのクラブの個室にいた。東京十二区で公明党代表・太田昭宏への刺客となった青木愛らを傍らに、十八番の「傷だらけの人生」を歌っていた。

「あと二十五日で、本当にうまい酒が飲めるな」

 そう問わず語りに呟いた小沢は、刺客作戦が自民党と公明党を慌てさせていることに、満悦の表情を見せていた。

 小沢が今回の衆院選で「お国入り」したのは一度だけだ。公示直前の八月十六日、日中は岩手県奥州市内の自らの選挙事務所でスタッフを激励、平民宰相と呼ばれた原敬が眠る盛岡市大慈寺に墓参し、「政権交代」を誓った。

 その日夜、盛岡市の中心部にある老舗「三寿司菜園総本店」。カウンターで小沢は岩手県知事・達増拓也、民主党県連代表の参院議員・工藤堅太郎ら七人の中心にいた。気の置けない仲間との酒席だったからか、小沢は三陸海岸から揚がったばかりのサンマに舌鼓を打ち、ビール一本と日本酒「八海山」を珍しく冷やで二合飲んだ。

「みんな新人候補の擁立の大変さがわかっていないんだよ」

 小沢は、久間の対抗馬となった福田衣里子を担ぐために「俺は三回も一緒に飲んだんだからな」とぼやいたが、その発言には「俺の他に誰が選挙を牽引できるのか」という自負が滲み出ていた。

 今回の民主党の大勝は、小沢が重点区に自身の秘書を投入し、徹底的な「地上戦」を展開してきた結果だ。

「人のいない場所でも辻立ちせよ」

「一日三百枚以上の名刺を配れ」

「人の少ない川上から川下の町中へ下っていけ」

 選挙に強い小沢――。新たな、しかも強固な神話を作った小沢の存在感は、党内でじわりじわりと拡大しつつあった。

「一部の人事を、先行させるべきではない」

 選挙結果の大勢が判明した三十日夜、幹部会議の席上で小沢は、内閣発足に先立って政権移行作業を行う新官房長官、新幹事長らの指名を行わないように求めた。鳩山は当初、選挙後すぐに主要閣僚候補らを指名して「政権移行チーム」を作る腹づもりだったが、小沢の一言で舵を切らざるを得なかった。

 すでに二十三日の幹部会合でも、小沢は政権移行作業の先送りをさせていた。英国のケースにならった政権移行スケジュールを志向する代表代行・菅直人、幹事長・岡田克也に対し、党内外の敵味方に事前に手の内を明かすことになる「工程表」の考え方に否定的だったからだ。

 鳩山新政権づくりは、明らかに小沢ペースになりつつあった。衆院選の最中、「鳩山は小沢の衆院議長就任を検討している」との情報が駆け巡り、小沢側近が「肖像画のようにお飾りにする気か」と不快感を示す一幕もあった。

 来夏の参院選までは選挙の実権を握り続けるハラの小沢は人事に一切口をつぐみ、党内の猟官運動を注視している。まずは、衆院三百八人、参院百九人、計四百十七人という大所帯をどう固めていくかに腐心し、参院での単独過半数確保のための戦略を練る。

 参院で二十一人の勢力を持ち、野党の自民党とは組まないと公言する公明党の存在は見逃せない。民主党との連立政権を目指す社民党が安全保障政策、国民新党が郵政民営化でそれぞれ独自の主張に固執すれば、公明党が民主党に擦り寄ってくる展開も予想される。

 さらに、自民党議員が首班指名で揃ってA級戦犯の麻生の名を書くことができるのか。今回の総選挙で自民党の派閥はその存在意義を完全に失った。町村派は六十一人が二十三人に激減、二十五人となった古賀派に衆院最大派閥の座を譲った。かつては「一致団結箱弁当」と言われた田中派の流れを汲む津島派はたった十四人、十二人だった二階派にいたっては会長の経産相・二階俊博しか当選しなかった。元副総裁・山崎拓以外の領袖はかろうじて議席を確保したが、自身の選挙に精一杯で多くの兵隊を見殺しにした戦犯たちによる派閥の締め付けはもはやありえない。そうなれば、参院自民党から民主党へ転じる議員が相次ぐ可能性もある。

 そのときのキーマンはやはり小沢だ。参院が次の政局の舞台となる。(文中敬称略)


2009年9月2日

赤坂太郎 文藝春秋9月号

麻生「最後の迷走」の末に玉砕解散
http://bunshun.jp/bungeishunju/akasakataro/0909.html
不発に終わった麻生おろし。選挙後の自民党は焼け野原になる――

歴史的な政治決戦に打って出る指揮官とは思えない悲壮な挨拶だった。
「私の願いは一つであります。ここにお見えの衆院議員の立候補予定者に全員揃って帰って来ていただくことです」
 目には涙がにじみ、声は震えていた。
 七月二十一日、自民党本部で開かれた両院議員懇談会での首相・麻生太郎の言葉には、その直後に自らの手で衆院を解散するという高揚感は欠片(かけら)もなく、負け戦に赴く悲壮感だけが漂っていた。
 麻生は、事前に元財務相・伊吹文明らから「声涙倶(とも)に下る挨拶をしたほうがいい」とアドバイスを受けていた。自民党への支持を回復させるため「真摯な麻生」の演出を狙ったのだが、自民党の凋落ぶりをより印象づけるだけだった。
「崖っぷち解散」「自滅解散」「バンザイ突撃解散」……。身内からそう揶揄されながらも、麻生は自身のプライドを守るためだけに解散権を行使したのだ。
 総理就任以来、数度にわたって解散を見送った麻生が「最後のタイミング」として狙ったのが七月二日もしくは三日の解散だった。
 六月第一週、ある極秘指令が麻生から直接警察庁首脳部に伝えられた。勇退する吉村博人長官の後任に安藤隆春次長、次長に片桐裕官房長をそれぞれ充てる最高幹部人事を「六月中に発令せよ」という内容だった。当初、七月三日の発令で準備が進められていた人事は、六月二十六日発令に前倒しされた。衆院が解散されれば、警察の人事は凍結になる。選挙違反取締りや遊説する政党幹部の警護などに取り組まなければならないからだ。
 麻生は解散前の自民党三役人事と小幅の内閣改造を思い描いていた。特に、最大の支持基盤、町村派のオーナー的存在である元首相・森喜朗の意向を優先する幹事長・細田博之は“目の下のたんこぶ”だった。麻生は、選対副委員長・菅義偉(すが・よしひで)の幹事長起用を思い描いていた。町村派も政権の求心力回復のために党人事をすべきとの考えだったが、その内容は麻生の思惑とは似て非なるものだった。
 六月十六日、国会図書館に森、元首相・安倍晋三、前官房長官・町村信孝、前国交相・中山成彬ら町村派首脳が集まった。森はこう口火を切った。
「人事を行って、町村幹事長だ。そうなれば、派閥会長は安倍君だ」
 得意げな森、満更でもない町村の表情を、安倍の次の一言が変えた。
「いやあ、私は……。中川さんに戻ってきてもらえばいいじゃないですか」
 安倍はこともあろうに、森、町村と袂(たもと)を分かった元幹事長・中川秀直の会長就任を進言したのだ。森と町村が受け入れるはずもない。森は、「それなら町村君はそのままで、安倍幹事長だ」という冗談で安倍の提案を一蹴し、「町村幹事長」でその場の意思統一をした。
 安倍は即座にこの結果を麻生に電話で伝えた。麻生は、東大卒で頭の良さを隠そうとしない町村が以前から鼻持ちならなかった。政権発足時にも森から町村幹事長を打診されたが、断っていた。麻生に町村幹事長は呑めるはずもなかった。
■“サミット・ハイ”
 そして、自らの手による解散と菅幹事長への拘泥が、麻生「最後の迷走」を招く。増幅させたのは、やはり安倍だった。安倍は六月二十四日夜、「大幅改造と七月三日解散」を強く迫ったが、麻生は安倍の個人的な進言を「町村幹事長を受け入れなくても、町村派は人事を了承してくれる」と受け止めてしまったのだ。
 翌二十五日午後、麻生は菅を官邸に呼び入れた。だが、衆院選対策を重視する菅は、厚労相・舛添要一の幹事長就任を強く主張した。しかし、このやりとりは一切伏せられたため、森らには「麻生が菅を幹事長にするつもりだ」と映った。
 三十日夜、態度を硬化させた森は麻生に「町村幹事長以外で人事を行うなら麻生おろしがどうなっても知らない」と通告し、麻生は党役員人事を断念した。安倍は直後、周辺に「もう麻生さんには何も言わない」と不満を隠さなかった。
 党役員人事と七月初めの解散を断念した麻生は、失意の中、七月六日にイタリアへ旅立った。ところが、世界の指導者と肩を並べるサミットは、麻生に“全能感”を与えた。帰国した十一日、翌日投開票を迎える東京都議選の敗北は濃厚だったが、“サミット・ハイ”ともいえる状態の麻生には、根拠のない高揚感があった。「なぜか麻生絶好調」の情報は、瞬く間に党内、そして公明党にも伝わった。
 都議選での歴史的惨敗が確実になった投票日の夜、麻生は「数日内の解散、八月上旬投票」を細田と官房長官・河村建夫に伝えた。しかし、ここで立ちはだかったのが公明党だった。逆風下の都議選で公明党は二十三人全員の当選を果たしたものの、支持母体の創価学会は疲弊しきっていた。そのまま衆院選になだれ込む展開はどうしても避けたかった。
「八月上旬投票なら公明党は協力できない」――。深夜、公明党代表・太田昭宏は麻生にそう伝えた。選挙協力の撤回をちらつかせた先送り要求に、麻生はまたブレた。もはや面子だけの麻生に、公明党の抵抗を押し切る力は尽きていた。
 翌十三日、麻生は妥協の産物として、「二十一日解散、八月三十日投票」を表明した。任期満了選挙に限りなく近いスケジュールだった。戦術も戦略も、何よりそれを捻り出す思考そのものを欠いた、混迷の果ての「決断」だった。
 都議選敗北は、自民党内の反麻生勢力には麻生おろしの号砲を意味した。
 十二日夜、窓辺に東京タワーの灯りが映える東京・赤坂のANAインターコンチネンタルホテル東京・六一〇号室。元官房長官・塩崎恭久は、元首相補佐官・世耕弘成、小泉チルドレンの小野次郎ら十人余りを前に「このままでは自民党は衆院選で大敗する。総裁選の前倒しを視野に署名を集めよう」と演説をぶった。署名集めの大義名分は、マニフェストの早期策定とすることで一致した。
 翌十三日、同じホテルの六〇七号室には、塩崎たちより前に、元幹事長・加藤紘一、元運輸相・川崎二郎、元経企庁長官・船田元らが既に陣取っていた。塩崎からの電話に出たのは加藤だった。二〇〇〇年の「加藤の乱」で袂を分かって以来、接点のなかった二人。「ごぶさたしております」と切り出した塩崎に、加藤は「久しぶりだな。部屋に来たらいい」と誘いを掛けた。塩崎は世耕、小野、衆院議員・平将明を引き連れて、六〇七号室のドアを叩いた。
 オリーブ色の壁を背にして加藤は「明日の総務会では、我々の意見をしっかり言わなければいけない。このままでは歴史的な敗北を喫する」と倒閣を宣言した。それまでバラバラだった反麻生勢力の線が面に広がるかに見えた。
 十四日、国会内で開かれた自民党総務会。加藤は予告通り「都議選をどう総括し、衆院選に臨むのか説明すべきだ」と、麻生の責任論に言及した。元幹事長・武部勤も「都議選は単なる地方選ではない。惨敗した責任は執行部にある」と噛みついた。相次ぐ責任を問う声に、選対委員長・古賀誠は「執行部で責任を取れというなら、私が辞めさせていただく」と言い残し、憤然と席を立った。参議院議員会長・尾辻秀久も「私もクビを差し出す」と続けて退席した。責任者の敵前逃亡は、麻生政権が中枢から崩壊し始めたかのような光景に映った。
 その日夜、件(くだん)のホテル・六一〇号室に中川、加藤、武部、塩崎ら麻生おろしの主要メンバーが集まった。
 総裁選前倒しを可能にするための両院議員総会の開催には、自民党全議員の三分の一である百二十八人以上の署名が欠かせない。この段階で塩崎らが集めた署名は六十七人に過ぎなかった。中川は「署名をもっと集めなければいけない。誰がやっているのか顔をはっきり見せる必要がある」と発破をかけ、派閥トップや事務総長クラスを呼びかけ人にして署名を拡大させようと提案した。
 国会が事実上の閉会状態に入ったことを受け、衆院議員はその夜から翌十五日朝にかけて一斉に地元へ戻った。そのため、署名集めに奔走したのは参院の世耕だった。前日から引き続き六一〇号室に陣取り、次々と電話をかけた。楕円形のテーブルの上には食べ残しのクラブハウスサンドが散乱した。午後には、財務相・与謝野馨と農水相・石破茂も署名し、百二十八人に達する勢いになった。
 十五日午後六時過ぎ、塩崎の携帯電話を鳴らしたのは、細田だった。
「あと半日か一日待ってほしい。首相官邸に私から働き掛けて、天下りの全面禁止とかあなた達のマニフェストを飲ませるから。勘弁してほしい。中川さんにもあなたから連絡しておいて頂けますか」
 塩崎からの連絡を受けた中川は「署名が集まる勢いを察して、急に執行部が動いたのだろう」と受け止め、勝利を夢想した。そして午後八時すぎ、百二十八人目となる前法相・保岡興治の署名を元防衛相・小池百合子が集めてきた。世耕はすぐに部屋を飛び出し、ホテルのロビーで待ち受ける報道陣に報告した。
 束の間の勝利の瞬間だった。
■玉砕へ向かう自民党
「両院議員総会は危険だ。あなたの派閥の署名を撤回できないか」
 十六日夕、全国保育議員連盟の会合で伊吹が元厚相・津島雄二に促した。そのとき津島は密かに今期限りで引退し、息子に地盤を継がせようと考えていた。津島は、執行部に「貸し」を作ることが、息子への世襲をスムーズに行う担保となると判断し、津島派で署名活動の呼び掛け人になった事務総長の船田に撤回を指示した。船田は「首相が集会出席を確約するなら撤回してもいい」と応じた。
 津島は船田への指示後、中川に「麻生おろし目的の署名ならば、津島派議員の名簿をすべて引き揚げさせてもらう」と電話で抗議した。執行部が名簿を点検した結果、津島派などからは「秘書が勝手にサインした」「麻生おろしではなく、首相から反省の弁が聞きたかっただけだ」と釈明する議員が相次いだ。
 執行部は署名した議員に公認権と党からの選挙資金をちらつかせ、中川らの動きに与(くみ)しないよう釘を刺した。元規制改革担当相・佐田玄一郎など比例代表での優遇を望む議員には「上位は確約できない」と半ば恫喝し、署名からの離脱を要求した。麻生自身も、三原朝彦ら付き合いのある衆院議員に自ら電話をかけた。
 十七日昼、党本部で記者会見した細田は、両院議員総会は開催せず、代わりに正式な議決機関ではない両院議員懇談会を開き、麻生がその場で衆院選への決意を表明すると発表した。
 勝負はすでに決していた。
「自民党議員の間では『靖国神社で会おう』という言葉もささやかれている」
 細田の記者会見直後、自民党本部七〇六号室。塩崎が主導する「速やかな政策実現を求める有志議員の会」など九つの議員連盟のメンバー十人余りが集まった会合では、出席者からそんな自虐的な言葉も出た。多くの議員が玉砕し、生きて永田町には戻れないという意味である。
「厳しい戦いになると思うが、お互いに一生懸命勝ち抜いてこようじゃないか。焼け野原になれば、我々には自民党再生を言う資格がある」
 塩崎はこう激励するのが精一杯だった。
 一方、麻生おろしを封じ込み、かろうじて自らの手で解散を打つことができた麻生だが、再び悪い癖が出た。
「元気な高齢者をいかに使うか。この人たちは皆さんと違って、働くことしか才能がないと思って下さい」「八十歳過ぎて遊びを覚えても遅い」
 二十五日午前、横浜市内で開かれた古巣の日本青年会議所の会合で、麻生はこう口を滑らした。四日前に涙を浮かべながら自らの失言や発言のブレを詫びたのは一体何だったのか。
 反省のない指揮官の不手際だけでなく司令部の機能麻痺も深刻だ。麻生は選対委員長の辞意を表明した古賀を選挙対策本部長代理に格上げする形で事態を収拾したが、「選対委員長の空白」という新たな問題を発生させている。選対委員長は、従来幹事長が持っていた選挙の権限を委譲され、幹事長と同格となったポスト。選対本部は本部長を麻生が務める、いわば形式的な組織にすぎない。
 実務を担うべき選対副委員長である菅は、マニフェストを取りまとめるプロジェクト・チームの座長を任せられており、当面はその仕事で手一杯だ。もとより各派閥の選対機能は失われて久しい。各地からの選挙応援の依頼も組織的な対応ができず、少子化担当相・小渕優子、消費者行政担当相・野田聖子ら人気議員には、候補者から直接、応援依頼が届き、悲鳴が上がる有様だった。
 結党から五十四年、自民党玉砕の日が刻一刻と近づいている。(文中敬称略)