2009年9月18日

赤坂太郎 文藝春秋10月号

麻生が招いた自民党「終戦の日」
http://bunshun.jp/bungeishunju/akasakataro/0910.html

「地上戦」で自民党を焼け野原にした小沢の次なる仕掛けは何か?――

「自民党に対する積年の不満をぬぐい去ることができなかった。その責任を負う定めにあったと感じている。宿命と思って甘受しなければならない」

 八月三十日、大物議員の落選を伝える速報が次々とテレビ画面に映し出されていくなか、ようやく自民党総裁辞任を表明した首相・麻生太郎は、大敗の原因を「積年の不満」だと言明した。自らの存在が最大の敗因だったという事実を、まだ認められないでいたのだ。

「麻生が数ポイント差に迫られている」

 開票前の三十日夕、首相官邸に寄せられた民放の出口調査の情報は、官房長官・河村建夫ら側近を驚愕させた。さすがに「現職首相の落選」に備えたシミュレーションは行われなかったが、河村らはマスコミ各社からの情報収集に血道を上げた。そして、「民主大勝、自民大敗」の情勢を伝えるために公邸入りした河村に続き、午後八時からの開票直前には幹事長・細田博之も自らの辞意を伝えるために公邸に入った。

「ゲームオーバーだな。しかし自民党の基盤である地方組織が残っている。これをきっちりと強化していかなきゃならん。総裁選でも、地方組織をかませていく必要がある」

 麻生は河村と細田にこう語った。総裁選は特別国会後に行い、首班指名では自民党議員に「麻生」と書かせる算段だった。そして、二人を唖然とさせたのが、麻生の次の一言だった。

「総裁選に手を挙げる者がいなければ、俺が立候補してもいいぞ」

 漢字だけではない。最後の最後まで、麻生は空気が読めなかった。

 民主三百八、自民百十九―。

 大物議員や元閣僚が相次いで議席を失い、麻生の盟友の前財務相・中川昭一、総裁特別補佐・島村宜伸も永田町に帰還できなかった。まさに焼け野原だった。

 何度も解散の時期を逸し、迷走を繰り返した末の麻生の「玉砕解散」が、自民党に「終戦の日」を迎えさせたのだ。

 予兆はあった。八月十日、名古屋に本社を置く中日新聞に載った情勢調査。中部地方九県の五十一の小選挙区のうち自民党が優位に立っているのは四選挙区だけという衝撃的な内容だった。自民党選対の関係者は「中日新聞には岡田克也幹事長の弟がいる。民主党応援団だから」と嘯(うそぶ)き、恣意的な調査だとして真剣に受け止めようとしなかったが、「愛知、静岡全滅」という情報は候補者同士の携帯電話で瞬く間に全国に広がった。

 特に知名度、人気ともに抜群だった消費者行政担当相・野田聖子が民主党の新人候補に負けているという情報は驚きを持って広まった。野田陣営は「政権交代が必要かどうかを聞いている。誘導的な質問だ」と選対同様の受け止め方をしたものの、応援スケジュールを絞るなど運動計画を組み直さざるを得なかった。

 自身も劣勢とされた元首相・森喜朗は十一日、出演したネットサービス「ニコニコ動画」で、「名古屋が本社のブロック紙は『自民党が全部負ける』と書いた。こんな失礼な新聞はない。『そうあってほしい』という希望だ」と焦りと怒りを中日新聞にぶつけた。

 森に根拠がなかったわけではない。自民党が七月三十一日から八月二日にかけて行った情勢調査では、確実に獲得できる議席が「小選挙区約百十、比例約四十、計約百五十」と、一カ月前の前回調査から小選挙区で約四十も上積みしていたからだ。強固な後援会組織を持つベテラン議員の伸びが大きく、民主党新人で元薬害肝炎訴訟九州原告団長・福田衣里子に引き離されていた元防衛相・久間章生もキャッチアップしていた。個々の結果は派閥を通じて各候補者に伝えられ、「組織戦を展開できる自民党が回復する」という希望的観測を生んでいたからだ。

 麻生も同様、いやそれ以上だった。

「民主党は公約の財源を示せていない。安全保障問題も説明できていない。押せ押せで行こう」

 十四日午後、自民党本部。ともに選対本部長代理を務める細田、前選対委員長・古賀誠と打ち合わせをした首相は、「攻め」の姿勢で臨むと宣言した。表情は高揚していた。

■大本営発表

「国旗を切り刻むという行為がどういうことなのか、とても悲しく、許し難い行為である」

 公示前日の十七日に行われた主要六政党の党首討論会の最終盤、麻生は民主党の集会で引き裂かれた日の丸でつくった党旗が使われていたことを持ち出し、民主党代表・鳩山由紀夫に強く謝罪を求めた。自民党支持層を呼び戻すには保守色を強めるしかないと「民主党と労働組合の革命計画」「日本人尊厳喪失進行中」など、ほとんど怪文書のようなパンフレットを配布させたり、遊説先の聴衆に日の丸を配る「愛国作戦」を展開していた麻生にとって、もってこいの敵失だった。得意満面の麻生は「あの話受けるんだよ」と、この後も盛んに遊説先でこの「日の丸引き裂き事件」を取り上げた。

 自前とはいえ上昇傾向になった情勢調査結果、そして愛国作戦の反応のよさに、麻生、細田らは本気で「自民二百十五議席、公明三十議席で与党過半数確保」を目標に据えた。

「自民党支持率が反転上昇を始め、民主党支持率は、先月末に頭打ちとなって以降、下落を続けており、相手を捉えることが可能な情勢となった――」

 十七日夜、自民党は「決戦! 自民党選対通信」を各候補者の事務所にFAXで一斉送信した。負け戦の戦果を針小棒大に宣伝する「大本営発表」のような内容だった。実感とほど遠い内容から、党本部に根拠を問い合わせる候補者陣営も出てくる始末だった。

 しかも、その大本営には指揮官すらいなかった。幹事長・細田から指揮権を譲り受けたはずの古賀が、解散前に選対委員長職を一方的に辞任してしまったにもかかわらず、細田はその空白を埋めようとしなかった。解散後、軍資金配布にあたり重点区への傾斜配分を求める声を無視し、一人一律二千万円を候補者の資金管理団体や政治団体に振り込んだが、その通知も行き渡っておらず、数日間、入金の事実を知らない候補者さえいた。司令塔がいないため、選対、政調、総裁室がバラバラに資料を送付、整理されない大量の資料に混乱した候補者からの苦情が殺到し、八月上旬に党本部が「ご迷惑をおかけしました」という謝罪の言葉を入れた文書を配布する一幕もあった。

 そして、公示日翌日の十九日の夜――。

「民主が三百議席だって?」

 朝日新聞が翌日付の朝刊に掲載する情勢調査の結果が麻生、細田ら党首脳部に伝えられた。麻生、細田とも調査対象が三百小選挙区のうち百五十である点に着目し、「正確なものではない」と努めて冷静に受け止めようとしたが、全選挙区を調査した読売、日経が「民主、三百議席超す勢い」などと続き、毎日は「三百二十議席超す」と追いかけた。極めつけは、民主党の候補者数三百三十を上回る「三百三十八」という“理論値”を叩き出したNHKの調査結果だった。

 まるで自民党本部の上空に原爆が投下されたかのような衝撃だった。反麻生を標榜していた候補者は「首相は入院して欲しい」と吐き捨て、親麻生の候補者からも「選挙後に引退すると言って欲しい」との声が漏れるようになった。要請していないのに日程を入れられた首相遊説を何とか断れないかと、県連幹部に相談する西日本の若手候補もいたほどだ。

 そして、投票日の朝を迎えた。

「日本を壊すな。」

 その日の全国紙朝刊に掲載された自民党の全面広告。日の丸を下地に「偏った教育の日教組に、子供たちの将来を任せてはいけない」「信念なき安保政策で、国民の生命を危機にさらしてはいけない」と訴える、最後の愛国作戦だった。実は、このフレーズは企画段階で「共感を呼ぶ広がりがない」として見送られていたのだが、あまりの劣勢に封印を解いたものだった。まるで「民主党は鬼畜米英だ」とでも言わんばかりだった。

 もはや揺り戻しは期待できなかった。

■「小沢衆院議長」情報

「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます」「今の世の中、右も左も真暗闇じゃござんせんか」

 選挙戦もまだ序盤の八月五日夜、民主党代表代行・小沢一郎は東京・赤坂にある行きつけのクラブの個室にいた。東京十二区で公明党代表・太田昭宏への刺客となった青木愛らを傍らに、十八番の「傷だらけの人生」を歌っていた。

「あと二十五日で、本当にうまい酒が飲めるな」

 そう問わず語りに呟いた小沢は、刺客作戦が自民党と公明党を慌てさせていることに、満悦の表情を見せていた。

 小沢が今回の衆院選で「お国入り」したのは一度だけだ。公示直前の八月十六日、日中は岩手県奥州市内の自らの選挙事務所でスタッフを激励、平民宰相と呼ばれた原敬が眠る盛岡市大慈寺に墓参し、「政権交代」を誓った。

 その日夜、盛岡市の中心部にある老舗「三寿司菜園総本店」。カウンターで小沢は岩手県知事・達増拓也、民主党県連代表の参院議員・工藤堅太郎ら七人の中心にいた。気の置けない仲間との酒席だったからか、小沢は三陸海岸から揚がったばかりのサンマに舌鼓を打ち、ビール一本と日本酒「八海山」を珍しく冷やで二合飲んだ。

「みんな新人候補の擁立の大変さがわかっていないんだよ」

 小沢は、久間の対抗馬となった福田衣里子を担ぐために「俺は三回も一緒に飲んだんだからな」とぼやいたが、その発言には「俺の他に誰が選挙を牽引できるのか」という自負が滲み出ていた。

 今回の民主党の大勝は、小沢が重点区に自身の秘書を投入し、徹底的な「地上戦」を展開してきた結果だ。

「人のいない場所でも辻立ちせよ」

「一日三百枚以上の名刺を配れ」

「人の少ない川上から川下の町中へ下っていけ」

 選挙に強い小沢――。新たな、しかも強固な神話を作った小沢の存在感は、党内でじわりじわりと拡大しつつあった。

「一部の人事を、先行させるべきではない」

 選挙結果の大勢が判明した三十日夜、幹部会議の席上で小沢は、内閣発足に先立って政権移行作業を行う新官房長官、新幹事長らの指名を行わないように求めた。鳩山は当初、選挙後すぐに主要閣僚候補らを指名して「政権移行チーム」を作る腹づもりだったが、小沢の一言で舵を切らざるを得なかった。

 すでに二十三日の幹部会合でも、小沢は政権移行作業の先送りをさせていた。英国のケースにならった政権移行スケジュールを志向する代表代行・菅直人、幹事長・岡田克也に対し、党内外の敵味方に事前に手の内を明かすことになる「工程表」の考え方に否定的だったからだ。

 鳩山新政権づくりは、明らかに小沢ペースになりつつあった。衆院選の最中、「鳩山は小沢の衆院議長就任を検討している」との情報が駆け巡り、小沢側近が「肖像画のようにお飾りにする気か」と不快感を示す一幕もあった。

 来夏の参院選までは選挙の実権を握り続けるハラの小沢は人事に一切口をつぐみ、党内の猟官運動を注視している。まずは、衆院三百八人、参院百九人、計四百十七人という大所帯をどう固めていくかに腐心し、参院での単独過半数確保のための戦略を練る。

 参院で二十一人の勢力を持ち、野党の自民党とは組まないと公言する公明党の存在は見逃せない。民主党との連立政権を目指す社民党が安全保障政策、国民新党が郵政民営化でそれぞれ独自の主張に固執すれば、公明党が民主党に擦り寄ってくる展開も予想される。

 さらに、自民党議員が首班指名で揃ってA級戦犯の麻生の名を書くことができるのか。今回の総選挙で自民党の派閥はその存在意義を完全に失った。町村派は六十一人が二十三人に激減、二十五人となった古賀派に衆院最大派閥の座を譲った。かつては「一致団結箱弁当」と言われた田中派の流れを汲む津島派はたった十四人、十二人だった二階派にいたっては会長の経産相・二階俊博しか当選しなかった。元副総裁・山崎拓以外の領袖はかろうじて議席を確保したが、自身の選挙に精一杯で多くの兵隊を見殺しにした戦犯たちによる派閥の締め付けはもはやありえない。そうなれば、参院自民党から民主党へ転じる議員が相次ぐ可能性もある。

 そのときのキーマンはやはり小沢だ。参院が次の政局の舞台となる。(文中敬称略)


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