2009年9月2日

赤坂太郎 文藝春秋9月号

麻生「最後の迷走」の末に玉砕解散
http://bunshun.jp/bungeishunju/akasakataro/0909.html
不発に終わった麻生おろし。選挙後の自民党は焼け野原になる――

歴史的な政治決戦に打って出る指揮官とは思えない悲壮な挨拶だった。
「私の願いは一つであります。ここにお見えの衆院議員の立候補予定者に全員揃って帰って来ていただくことです」
 目には涙がにじみ、声は震えていた。
 七月二十一日、自民党本部で開かれた両院議員懇談会での首相・麻生太郎の言葉には、その直後に自らの手で衆院を解散するという高揚感は欠片(かけら)もなく、負け戦に赴く悲壮感だけが漂っていた。
 麻生は、事前に元財務相・伊吹文明らから「声涙倶(とも)に下る挨拶をしたほうがいい」とアドバイスを受けていた。自民党への支持を回復させるため「真摯な麻生」の演出を狙ったのだが、自民党の凋落ぶりをより印象づけるだけだった。
「崖っぷち解散」「自滅解散」「バンザイ突撃解散」……。身内からそう揶揄されながらも、麻生は自身のプライドを守るためだけに解散権を行使したのだ。
 総理就任以来、数度にわたって解散を見送った麻生が「最後のタイミング」として狙ったのが七月二日もしくは三日の解散だった。
 六月第一週、ある極秘指令が麻生から直接警察庁首脳部に伝えられた。勇退する吉村博人長官の後任に安藤隆春次長、次長に片桐裕官房長をそれぞれ充てる最高幹部人事を「六月中に発令せよ」という内容だった。当初、七月三日の発令で準備が進められていた人事は、六月二十六日発令に前倒しされた。衆院が解散されれば、警察の人事は凍結になる。選挙違反取締りや遊説する政党幹部の警護などに取り組まなければならないからだ。
 麻生は解散前の自民党三役人事と小幅の内閣改造を思い描いていた。特に、最大の支持基盤、町村派のオーナー的存在である元首相・森喜朗の意向を優先する幹事長・細田博之は“目の下のたんこぶ”だった。麻生は、選対副委員長・菅義偉(すが・よしひで)の幹事長起用を思い描いていた。町村派も政権の求心力回復のために党人事をすべきとの考えだったが、その内容は麻生の思惑とは似て非なるものだった。
 六月十六日、国会図書館に森、元首相・安倍晋三、前官房長官・町村信孝、前国交相・中山成彬ら町村派首脳が集まった。森はこう口火を切った。
「人事を行って、町村幹事長だ。そうなれば、派閥会長は安倍君だ」
 得意げな森、満更でもない町村の表情を、安倍の次の一言が変えた。
「いやあ、私は……。中川さんに戻ってきてもらえばいいじゃないですか」
 安倍はこともあろうに、森、町村と袂(たもと)を分かった元幹事長・中川秀直の会長就任を進言したのだ。森と町村が受け入れるはずもない。森は、「それなら町村君はそのままで、安倍幹事長だ」という冗談で安倍の提案を一蹴し、「町村幹事長」でその場の意思統一をした。
 安倍は即座にこの結果を麻生に電話で伝えた。麻生は、東大卒で頭の良さを隠そうとしない町村が以前から鼻持ちならなかった。政権発足時にも森から町村幹事長を打診されたが、断っていた。麻生に町村幹事長は呑めるはずもなかった。
■“サミット・ハイ”
 そして、自らの手による解散と菅幹事長への拘泥が、麻生「最後の迷走」を招く。増幅させたのは、やはり安倍だった。安倍は六月二十四日夜、「大幅改造と七月三日解散」を強く迫ったが、麻生は安倍の個人的な進言を「町村幹事長を受け入れなくても、町村派は人事を了承してくれる」と受け止めてしまったのだ。
 翌二十五日午後、麻生は菅を官邸に呼び入れた。だが、衆院選対策を重視する菅は、厚労相・舛添要一の幹事長就任を強く主張した。しかし、このやりとりは一切伏せられたため、森らには「麻生が菅を幹事長にするつもりだ」と映った。
 三十日夜、態度を硬化させた森は麻生に「町村幹事長以外で人事を行うなら麻生おろしがどうなっても知らない」と通告し、麻生は党役員人事を断念した。安倍は直後、周辺に「もう麻生さんには何も言わない」と不満を隠さなかった。
 党役員人事と七月初めの解散を断念した麻生は、失意の中、七月六日にイタリアへ旅立った。ところが、世界の指導者と肩を並べるサミットは、麻生に“全能感”を与えた。帰国した十一日、翌日投開票を迎える東京都議選の敗北は濃厚だったが、“サミット・ハイ”ともいえる状態の麻生には、根拠のない高揚感があった。「なぜか麻生絶好調」の情報は、瞬く間に党内、そして公明党にも伝わった。
 都議選での歴史的惨敗が確実になった投票日の夜、麻生は「数日内の解散、八月上旬投票」を細田と官房長官・河村建夫に伝えた。しかし、ここで立ちはだかったのが公明党だった。逆風下の都議選で公明党は二十三人全員の当選を果たしたものの、支持母体の創価学会は疲弊しきっていた。そのまま衆院選になだれ込む展開はどうしても避けたかった。
「八月上旬投票なら公明党は協力できない」――。深夜、公明党代表・太田昭宏は麻生にそう伝えた。選挙協力の撤回をちらつかせた先送り要求に、麻生はまたブレた。もはや面子だけの麻生に、公明党の抵抗を押し切る力は尽きていた。
 翌十三日、麻生は妥協の産物として、「二十一日解散、八月三十日投票」を表明した。任期満了選挙に限りなく近いスケジュールだった。戦術も戦略も、何よりそれを捻り出す思考そのものを欠いた、混迷の果ての「決断」だった。
 都議選敗北は、自民党内の反麻生勢力には麻生おろしの号砲を意味した。
 十二日夜、窓辺に東京タワーの灯りが映える東京・赤坂のANAインターコンチネンタルホテル東京・六一〇号室。元官房長官・塩崎恭久は、元首相補佐官・世耕弘成、小泉チルドレンの小野次郎ら十人余りを前に「このままでは自民党は衆院選で大敗する。総裁選の前倒しを視野に署名を集めよう」と演説をぶった。署名集めの大義名分は、マニフェストの早期策定とすることで一致した。
 翌十三日、同じホテルの六〇七号室には、塩崎たちより前に、元幹事長・加藤紘一、元運輸相・川崎二郎、元経企庁長官・船田元らが既に陣取っていた。塩崎からの電話に出たのは加藤だった。二〇〇〇年の「加藤の乱」で袂を分かって以来、接点のなかった二人。「ごぶさたしております」と切り出した塩崎に、加藤は「久しぶりだな。部屋に来たらいい」と誘いを掛けた。塩崎は世耕、小野、衆院議員・平将明を引き連れて、六〇七号室のドアを叩いた。
 オリーブ色の壁を背にして加藤は「明日の総務会では、我々の意見をしっかり言わなければいけない。このままでは歴史的な敗北を喫する」と倒閣を宣言した。それまでバラバラだった反麻生勢力の線が面に広がるかに見えた。
 十四日、国会内で開かれた自民党総務会。加藤は予告通り「都議選をどう総括し、衆院選に臨むのか説明すべきだ」と、麻生の責任論に言及した。元幹事長・武部勤も「都議選は単なる地方選ではない。惨敗した責任は執行部にある」と噛みついた。相次ぐ責任を問う声に、選対委員長・古賀誠は「執行部で責任を取れというなら、私が辞めさせていただく」と言い残し、憤然と席を立った。参議院議員会長・尾辻秀久も「私もクビを差し出す」と続けて退席した。責任者の敵前逃亡は、麻生政権が中枢から崩壊し始めたかのような光景に映った。
 その日夜、件(くだん)のホテル・六一〇号室に中川、加藤、武部、塩崎ら麻生おろしの主要メンバーが集まった。
 総裁選前倒しを可能にするための両院議員総会の開催には、自民党全議員の三分の一である百二十八人以上の署名が欠かせない。この段階で塩崎らが集めた署名は六十七人に過ぎなかった。中川は「署名をもっと集めなければいけない。誰がやっているのか顔をはっきり見せる必要がある」と発破をかけ、派閥トップや事務総長クラスを呼びかけ人にして署名を拡大させようと提案した。
 国会が事実上の閉会状態に入ったことを受け、衆院議員はその夜から翌十五日朝にかけて一斉に地元へ戻った。そのため、署名集めに奔走したのは参院の世耕だった。前日から引き続き六一〇号室に陣取り、次々と電話をかけた。楕円形のテーブルの上には食べ残しのクラブハウスサンドが散乱した。午後には、財務相・与謝野馨と農水相・石破茂も署名し、百二十八人に達する勢いになった。
 十五日午後六時過ぎ、塩崎の携帯電話を鳴らしたのは、細田だった。
「あと半日か一日待ってほしい。首相官邸に私から働き掛けて、天下りの全面禁止とかあなた達のマニフェストを飲ませるから。勘弁してほしい。中川さんにもあなたから連絡しておいて頂けますか」
 塩崎からの連絡を受けた中川は「署名が集まる勢いを察して、急に執行部が動いたのだろう」と受け止め、勝利を夢想した。そして午後八時すぎ、百二十八人目となる前法相・保岡興治の署名を元防衛相・小池百合子が集めてきた。世耕はすぐに部屋を飛び出し、ホテルのロビーで待ち受ける報道陣に報告した。
 束の間の勝利の瞬間だった。
■玉砕へ向かう自民党
「両院議員総会は危険だ。あなたの派閥の署名を撤回できないか」
 十六日夕、全国保育議員連盟の会合で伊吹が元厚相・津島雄二に促した。そのとき津島は密かに今期限りで引退し、息子に地盤を継がせようと考えていた。津島は、執行部に「貸し」を作ることが、息子への世襲をスムーズに行う担保となると判断し、津島派で署名活動の呼び掛け人になった事務総長の船田に撤回を指示した。船田は「首相が集会出席を確約するなら撤回してもいい」と応じた。
 津島は船田への指示後、中川に「麻生おろし目的の署名ならば、津島派議員の名簿をすべて引き揚げさせてもらう」と電話で抗議した。執行部が名簿を点検した結果、津島派などからは「秘書が勝手にサインした」「麻生おろしではなく、首相から反省の弁が聞きたかっただけだ」と釈明する議員が相次いだ。
 執行部は署名した議員に公認権と党からの選挙資金をちらつかせ、中川らの動きに与(くみ)しないよう釘を刺した。元規制改革担当相・佐田玄一郎など比例代表での優遇を望む議員には「上位は確約できない」と半ば恫喝し、署名からの離脱を要求した。麻生自身も、三原朝彦ら付き合いのある衆院議員に自ら電話をかけた。
 十七日昼、党本部で記者会見した細田は、両院議員総会は開催せず、代わりに正式な議決機関ではない両院議員懇談会を開き、麻生がその場で衆院選への決意を表明すると発表した。
 勝負はすでに決していた。
「自民党議員の間では『靖国神社で会おう』という言葉もささやかれている」
 細田の記者会見直後、自民党本部七〇六号室。塩崎が主導する「速やかな政策実現を求める有志議員の会」など九つの議員連盟のメンバー十人余りが集まった会合では、出席者からそんな自虐的な言葉も出た。多くの議員が玉砕し、生きて永田町には戻れないという意味である。
「厳しい戦いになると思うが、お互いに一生懸命勝ち抜いてこようじゃないか。焼け野原になれば、我々には自民党再生を言う資格がある」
 塩崎はこう激励するのが精一杯だった。
 一方、麻生おろしを封じ込み、かろうじて自らの手で解散を打つことができた麻生だが、再び悪い癖が出た。
「元気な高齢者をいかに使うか。この人たちは皆さんと違って、働くことしか才能がないと思って下さい」「八十歳過ぎて遊びを覚えても遅い」
 二十五日午前、横浜市内で開かれた古巣の日本青年会議所の会合で、麻生はこう口を滑らした。四日前に涙を浮かべながら自らの失言や発言のブレを詫びたのは一体何だったのか。
 反省のない指揮官の不手際だけでなく司令部の機能麻痺も深刻だ。麻生は選対委員長の辞意を表明した古賀を選挙対策本部長代理に格上げする形で事態を収拾したが、「選対委員長の空白」という新たな問題を発生させている。選対委員長は、従来幹事長が持っていた選挙の権限を委譲され、幹事長と同格となったポスト。選対本部は本部長を麻生が務める、いわば形式的な組織にすぎない。
 実務を担うべき選対副委員長である菅は、マニフェストを取りまとめるプロジェクト・チームの座長を任せられており、当面はその仕事で手一杯だ。もとより各派閥の選対機能は失われて久しい。各地からの選挙応援の依頼も組織的な対応ができず、少子化担当相・小渕優子、消費者行政担当相・野田聖子ら人気議員には、候補者から直接、応援依頼が届き、悲鳴が上がる有様だった。
 結党から五十四年、自民党玉砕の日が刻一刻と近づいている。(文中敬称略)

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