2009年10月13日

赤坂太郎 文藝春秋11月号

「鳩山・一郎」政権の危うい均衡
http://bunshun.jp/bungeishunju/akasakataro/0911.html

鳩山が小沢に見せた意地。「反小沢」の橋頭堡は財務省と外務省だ――

「鳩山由紀夫君を衆議院規則第十八条第二項により、本院において、内閣総理大臣に指名することに決まりました」
 九月十六日午後三時前の衆院本会議場。議長に就任したばかりの横路孝弘が甲高い声を張り上げた。最後列に座っていた民主党代表・鳩山由紀夫が立ち上がり、ぎこちなく二度おじぎをすると、議長から見て右側の「与党席」につく民主党議員から歓声が上がった。

 長く続いてきた自民党支配が、あっけなく崩れた歴史的瞬間だった。

 政権発足以来、鳩山新政権は、矢継ぎ早にニュースを発信している。八ツ場(やんば)ダム建設中止を宣言。生活保護の母子加算復活を表明。そして鳩山は二十三日、ニューヨークでオバマ米大統領との初の首脳会談に臨んだ。インド洋での給油問題や在日米軍再編見直しなどの懸案は棚上げしたままではあるが「バラク」「ユキオ」の関係をつくることには成功。祖父・一郎、父・威一郎譲りのしたたかな外交術の片鱗を見せた。報道機関の内閣支持率調査も軒並み七割を超える。表面上は順風満帆の船出だ。

 だが、八月三十日の衆院選から政権発足までの十八日間をみると、民主党内の複雑な権力構造が浮かび上がってくる。

 鳩山と新幹事長・小沢一郎の関係は一九九三年以来、基本的には変わっていない。当時の細川政権で小沢は与党新生党の代表幹事、鳩山は官房副長官だった。この頃の鳩山は、簡単に言えば小沢の「怒られ屋」だった。

 当時、小沢と官房長官・武村正義が激しく対立。武村は記者会見などで小沢の考えと違う発言を繰り返していた。小沢は決まって「なぜ、あんなことを言わせるんだ」と鳩山を怒鳴りつけた。その年の十二月、鳩山の父・威一郎が肺炎による心不全で他界した。多忙ゆえ十分な看病ができなかった無念を感じていた鳩山は、後日知人にこう打ち明けている。

「言うまでもなく父の死と小沢さんの私に対する態度は全く無関係なのだが、どうしても関連づけてしまう自分がいた。だから私の小沢観は、負から始まっている」

 小沢は鳩山にとってそれほど絶対的な存在だった。以来、十六年経つが、二人はいまだにこの上下関係を引きずっている。例えば人事をめぐり二人で会談する際、小沢を党本部八階の代表室に呼ぶのではなく、六階の役員室にいる小沢のもとに自ら出向くこともあった。ここから、祖父の名と同じ「鳩山・一郎」政権づくりがスタートしたのだ。

■「反小沢」分断作戦

 新政権人事の中でも「小沢流」と関係者をうならせたのが、衆院議運委員長・松本剛明の人事だ。松本は小沢に近いとはいえない。これまでは岡田克也、野田佳彦という「反小沢」側の、ホープだったが、昨年九月、民主党代表選に出ようとした野田を止めたことで、野田との関係がこじれた。その松本を小沢は議運委員長に起用したのだ。

 小沢は、このポストに強い思い入れがある。一九八三年、まだ四十一歳だった小沢を田中角栄が「一郎、国会のルールをきちんと覚えろ」と議運委員長に据えた。真面目に二期務めた小沢は、その後、権力の階段を上っていった。そのポストに松本をつけたことは、小沢が将来のリーダーとして松本を認知したことを意味する。もちろん「敵の敵は味方」という発想で、反小沢サイドを分断させる狙いもあったのだろう。

 閣僚人事では国家公安委員長・中井洽(ひろし)、農水相・赤松広隆らが「小沢人事」とされる。反小沢勢力からは行政刷新担当相に仙谷由人、国土交通相に前原誠司を就けて批判をかわす一方、小沢が最も警戒感を持つ野田は入閣させなかった。

 もっとも、一連の人事は小沢が細かく指示したわけではない。鳩山が、小沢の思いを忖度して決めたというのが正確だろう。衆院議長人事も当初、元副議長・渡部恒三が有力だったが、小沢の意を受けた周辺が横路に舵を切った。

 横路が議長就任を渋り調整が難航する中、暗躍したのは参院議員会長・輿石東(こしいし・あずま)だった。人事が大詰めの十五日、輿石は数人の記者を連れて衆院議員会館の横路事務所を訪ねた。そこで、小沢に電話をかけて横路に受話器を渡した。小沢と輿石の連携プレーの前に、横路はその場で事実上「陥落」。議長就任が決まった。

 鳩山が小沢の言いなりにならず、意地を見せた面もある。藤井裕久の財務相起用だ。藤井は、鳩山の父・威一郎が大蔵事務次官の時、下で仕えた縁がある。鳩山も藤井に信頼を寄せる。だが小沢は、西松建設からの献金事件で窮地に立つ自分を藤井が守ろうとしなかったことにわだかまりを持っている。しかも、いいにつけ悪いにつけ秘密体質を持つ小沢にとって、既に財務相就任が決まっているかのように連日メディアに登場する藤井が面白くなかった。

 だが、それを承知の上で鳩山は「藤井財務相」を貫いた。鳩山を知る古参議員は「うまくいかなければ、自分が辞めればいいという、開き直りが鳩山にはある」と解説する。鳩山ほど議員バッジに執着のない男も珍しい。九三年六月十四日、当時の宮沢喜一首相の私邸に同僚たちと駆けつけて政治改革の実現を迫った時、「政治改革が実現しないなら、議員を続ける意味がない」と言って宮沢の目の前でバッジを外して見せた。さらに翌九四年、自社さ政権誕生にあたり、首相になることを渋る社会党委員長・村山富市に対しても、バッジを外して説得した。

 他の議員がやれば、ただのパフォーマンスと映るだろう。だが、普段は優柔不断に見える男がまなじりを決して決意を示す姿は、それなりに迫力がある。今回も、その片鱗を見せた。

 一方、岡田、野田ら「反小沢」陣営は、今回の人事でどう動いたか。岡田は幹事長続投を希望していた。小沢が衆院選の大勝で増殖する小沢チルドレンを背景に民主党を私党化するのを避けるには、自分が党でにらみをきかせるしかないと考えていたのだ。

 鳩山から外相打診の電話を受けたのは九月四日夜。しかし、岡田は「考えさせてほしい」と即答を避
けた。外相は要職であるのは間違いないが、激務で日本を留守にすることも多い。党に目配りするのは難しい。岡田にとっては好ましからざる提示だった。岡田は幹事長続投が無理だとしても、環境相など軽めのポストにつく可能性を探った。だが、人事権者の意思を曲げることはできなかった。

 十四日、岡田は党本部の幹事長室を引き払った。この部屋は十五日からは小沢が使う。岡田は、部屋に飾ってあったカエルの置物を持ち帰った。

「またカエル」

 真面目が売り物の岡田には珍しい駄じゃれだが、この置物に「アイ・シャル・リターン」の思いを込めたのだろうか。

 入閣有力と言われながら外れた野田。組閣名簿が発表されて間もない十六日夕、彼の携帯が鳴った。

「うちに来てくれないか」

 声の主は藤井。財務副大臣就任の要請だった。「反小沢」の野田を副大臣に招き入れれば、ただでさえ微妙な小沢との関係がより面倒になる。それを承知の上での誘いは、藤井が野田の後見人を買って出たということだ。それがうれしかったのだろう。野田はその場で快諾した。

 この前日の十五日、六本木の料理屋「季菜」で野田グループ「花斉会」が会合を開いた。最近、花斉会は離脱者が続いていたが、この日は初当選も含め約三十人が姿を見せた。存在感を誇示するには十分な数字だ。

 藤井・野田の財務省と、岡田の外務省。霞が関に並ぶ二つの建物が、当面は「反小沢」の拠点となる。外務省の副大臣には、野田側近の武正公一と、こちらも「反小沢」の福山哲郎が就いた。

 人事をめぐる攻防は、年内に第二ラウンドがあるかもしれない。民主党は秋の臨時国会で、国家行政組織法などを改正して副大臣、政務官の数を増やす準備を進めている。そして、これに併せて内閣法なども改正して現在十七人以内と定めてある閣僚の数も増やそうという構想がある。実現すれば、新しい閣僚が誕生する。そこで選ばれる顔触れによって鳩山内閣の性格は大きく変わる。

■参院選での小沢の秘策

 内部に波乱要因を抱えつつも危うい均衡を保つ民主党だが、対外的には高い支持率を背に来年の参院選で勝ち、衆参両院での過半数獲得を目指す。その陣頭指揮に立つのは、やはり小沢だ。

「オレの頭の中は、もう参院選だけだ」

 小沢は最近、党本部を訪ねてきた側近議員にこう伝え、さらにその“秘策”の一部を語っている。
「二人区で二人立てようかと思う」

 参院選は一人区から五人区まであるが、十二道府県ある二人区は、自民、民主が一議席ずつを分け合う事実上の無風区だった。ここに狙いを定めているのだ。

 二人区に二人擁立して自民党候補も含めた三人で議席を争う。一人は確実に当選するし、ひょっとしたら二議席独占できるかもしれない。候補者はたまったものではないが、小沢は涼しい顔で「自民党はそうやって強くなったんだ」と言ってのけた。

 側近は、さらに小沢らしい戦術を明かす。「二人目の候補を自民党から引き抜くこともある」。

 八月三十日の衆院選で、自民党の大物議員は次々に議席を失った。その落選組を、参院選の民主党候補として迎え入れる離れ業だ。改選を迎える現職が従来の民主党支持層を固め、二人目が自民層に食い込めば二議席独占の可能性はますます高まるという計算だ。

 二人区の道府県出身の落選組には、福島の根本匠、茨城の丹羽雄哉、新潟の稲葉大和、長野の小坂憲次、兵庫の井上喜一、広島の宮沢洋一、福岡の山崎拓、太田誠一などの名が次々とあがる。もちろん過去の経歴、地域事情からすれば簡単にくら替えすることはできないし、今のところ小沢サイドが彼らに秋波を送っている形跡もない。だが、ベテランの域に達している彼らがいつあるか分からない衆院選を待つのはつらい。来年国会に戻るチャンスがあればリスク承知で考える可能性はある。特に小坂、太田は自民党離党の経験もある。

 民主党は公明党にも楔を打ち始めている。「弱者の味方」を標榜する公明党は、子育て世代への支援に熱心だ。そこで民主党は臨時国会に、子ども手当導入に向けた関連法案を提出、公明党に賛否を迫る構えだ。ここで公明党が賛成することになれば自公共闘は瓦解に向かう。これは自民党への背信を意味するが、公明党幹部は、既に腹を固めたように「連立与党はあるが、連立野党というものはない」と言い切る。公明党が自民党との選挙協力を見直した場合、参院選に向けて自民党は決定的なダメージを負う。

 さらに気になる情報もある。小沢と参院自民党のドン・青木幹雄の接近だ。二人は自民党旧竹下派で同じ釜の飯を食った仲。一九九二年の同派分裂で袂を分かったが、その後もたまに日本酒を酌み交わしてきた。互いに口が固く、約束はきちんと守ることで認め合っている。その二人が連絡を取り合う頻度が高まってきているというのだ。

「鳩山が、政治献金の問題などで行き詰まった時、自民党参院議員・舛添要一を『ポスト鳩山』とすることで一致したらしい」という噂も駆けめぐり始めた。自民党の実力者を一本釣りして首相候補にするという手法は小沢の常套手段。舛添が早々と自民党総裁選への不出馬を決め込んだことも、この噂を増幅するきっかけとなった。

 その自民党は、九月二十八日、谷垣禎一を新総裁に選んだ。総投票数の六割に達する圧勝だった。「平時の谷垣」と言われた男が、結党以来の窮地を救うことができるかは疑問だが、谷垣自民党も小沢の動きに目を光らせながら反転攻勢を目指す。

 その小沢は九月二十日から二十七日まで英国を訪問した。元秘書で衆院議員に返り咲いた樋高剛を引き連れた外遊の詳細は明らかになっていないが、英国の政党関係者と会談し「政府と党が一元化しても党の重要さは変わらない」ことを理論武装してきたとされる。

 だが、小沢には、十五年以上前から「お忍び」で英国を訪ねた時は心臓の治療をするという「定説」もある。本人は衆院選後「最近体調がいい。(一九八九年に)自民党幹事長になった時以来だ」と言っているというが、この男の場合、いつまでも健康不安説はつきまとう。万一、倒れることがあれば政界に大激震が走る。そのような憶測が出ること自体、小沢の神秘性を増しているともいえるのだが……。(文中敬称略)

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