2009年7月6日

赤坂太郎 文藝春秋7月号

小沢辞任で追い詰められた麻生首相
http://bunshun.jp/bungeishunju/akasakataro/0907.html
小沢主導で誕生した鳩山民主、もはや自民に勝機はないのか――

「総理大臣としてふさわしいのはどちらか。どちらの政党に政権を担う力があるのか」
 五月二十七日、首相・麻生太郎の普段よりもやや甲高い声が、与野党議員の立ち見の聴衆に埋め尽くされた参院第一委員会室に響いた。昨年十一月以来、半年ぶりに開かれた党首討論での麻生の相手は、十六日に就任したばかりの民主党代表・鳩山由紀夫だった。
 麻生はいきなり鳩山に、“党首力対決”を挑んだ。二人の顔合わせは、戦後間もないころに激しい権力闘争を演じた、麻生の祖父・吉田茂と鳩山の祖父・鳩山一郎の対決とも重なる。麻生はこの日に向けて、当面の国会運営の大きな節目と睨み、綿密な準備をして臨んだ。自民党は当日の読売新聞朝刊に「鳩山代表に質問です。」と大書した全面広告まで出し、鳩山民主党に“宣戦布告”を発していた。
 鳩山が党首として首相を相手に論戦を挑むのは、四人目のことだった。九九年から三年あまり務めた代表時代に、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎との党首討論に臨んだ。しかし、党内からは「突っ込み不足で、おぼっちゃんの言葉遊びだ」と酷評されていた。それだけに、今回の党首討論への鳩山の意気込みはかつてとは比べようもないものだった。マスコミからのインタビュー依頼をすべて断り、側近と想定問答の作成に時間を費やした。
 討論の最初こそ、鳩山の過度の緊張が伝わってきたが、後半になると、麻生政権を「上から目線の政治」だと切って捨て、「麻生政権は官僚主導。我々は税金を払う側に立って政策を作る」と、ひたすら政権交代を訴えた。聴衆の応援団も野党側の声が大きく、おぼっちゃんらしからぬ鳩山の迫力が麻生を上回った――。
■辞任までブレた小沢
「衆院選で政権交代を達成するために、自ら身を引くことで民主党の団結を強め、挙党一致をより強固にする」
 五月十一日午後五時、民主党本部で緊急記者会見を開いた小沢一郎はようやく代表辞任を表明した。西松建設からの違法献金事件で公設第一秘書・大久保隆規が三月三日に東京地検特捜部に逮捕されてから、実に六十九日も経ってからの決断だった。小沢はわずか十分間の声明のなかで、「挙党一致」、「挙党態勢」と、「挙党」というフレーズを六回も繰り返した。
 会見中、その小沢が気色ばんだのは、質疑で記者から離党と議員辞職の可能性を聞かれたときだった。
「どうして離党とか、議員辞職の必要があるのか。政治資金の問題についても、一点のやましいところもない。政治的な責任で身を引くわけでもない」
 自分は違法献金事件の責任を取ったわけではない。来る衆院総選挙に向けて、民主党が勝てる態勢を敷くためにあえて身を引くのだ、との論理だった。大久保の起訴を受けて代表続投を表明した三月二十四日の会見で涙を浮かべていた男が、この日は辞任会見にはそぐわない笑みを何度も浮かべた。
 大久保の起訴以降、党の内外からは日に日に小沢への辞任圧力が増していた。「辞めどきを失ったのではないか」という見方も広がり始め、小沢が代表のままのほうが総選挙には有利に働くと見るや、自民党も激しい小沢批判をむしろ控える戦術を取っていた。
 夜の会合で自民党と民主党の議員が一緒になると、しばしば「イチローと一郎の見分け方」という怪文書が話題になった。「ヒットでやったというのがイチロー、秘書がやったというのが一郎」、「国民の期待にこたえるのがイチロー、国民の疑問にこたえないのが一郎」、「燃えるのがイチロー、火だるまなのが一郎」……。民主党議員は苦笑いで応じるしかなかった。
 その小沢は表向きは強気の姿勢を崩さなかった。五月一日のメーデー、小沢は札幌大通公園で八千人の聴衆を前に、「政権交代に向け、自分自身が朽ちるまで、その使命を達成することを約束する」と、続投を強調した。
 翌二日、都内の料理屋で小沢と向き合った鳩山も、こう元気づけた。
「党首討論や地方遊説の再開で、説明責任を果たしていないという批判を跳ね返すことができるはずです」
 小沢も鳩山の言葉にうなずいた。
「よしわかった。やろうじゃないか」
 だが、翌三日、再び小沢に呼び出された鳩山は、一瞬わが耳を疑った。
「この際、一歩退くことに決めた。党の結束のためには、やはり自分が身を引いたほうがいいだろう」
 小沢は淡々とした口調ながら、ややゆっくりした言い回しで切り出した。
「できるだけ影響が出ないようにしたい。五日に常任幹事会と両院議員総会を開いてほしい」
 小沢が新体制作りを急ごうとしたのには訳があった。自らが代表の座を引いても、影響力を残すことをまず優先させなくてはならない。小沢の意図は明白だった。言葉にこそ出さなかったが、鳩山を中心とした新体制が一番都合がいい。そう判断していることは、小沢の表情からにじみ出ていた。
 鳩山は小沢の意向を誰にも伝えることができなかった。小沢が翻意する可能性がちらついたからだ。一昨年秋の福田政権との大連立構想が失敗に終わったことで、プッツンした小沢は会見で辞任表明するも、党内の慰留を受けて翌々日に辞意を撤回した。今回もそうしたことがあるかもしれない。
 果たして鳩山の予感は的中した。
「辞めるのは、止めた」
 やはり、小沢はブレていたのだ。小沢が辞意を漏らしたという“異変”を察知した小沢周辺が、必死の慰留工作を展開した結果だった。この幻の辞任劇は後に、連休中に地元の予定を組んでいた議員が多く、常任幹事会を緊急招集しても集まれないので見送ったのだ、と説明されることになる。
 しかし、九日土曜日の午後、再び小沢の決断を促す決定的な出来事があった。小沢が心を許す数少ない財界人のひとり、京セラ名誉会長・稲盛和夫が小沢に会い、「党内は厳しい空気だ」と面と向かって伝えたのだ。
 実は、その直前に稲盛に面会した政治家がいる。民主党最高顧問の藤井裕久である。藤井はこの日午前、東京・八重洲の京セラ事務所を訪ね、「党内の八割は辞任論になっている。このままでは小沢さんも浮かばれない」と、率直に伝えていた。
 小沢は翌十日夜、「明日、辞任する」と、鳩山に短く伝えた。
 十一日の辞任表明当日。鳩山は、午前九時過ぎ、衆院予算委に出席していた代表代行・菅直人の携帯を鳴らす。
「きょう午後には、小沢代表自身が辞任を表明します。長い一日かもしれませんが、よろしくお願いします」
 菅は鳩山の言葉に驚きを隠そうとしなかったが、同時に、代表への意欲がわきあがる興奮を感じ取っていた。

■菅の高揚と岡田の誤算
 この日夜、グランドプリンスホテル赤坂で開いた菅グループの会合で、菅はこれまで腹にため込んでいた小沢批判の言葉を容赦なく吐きだした。その激しさに、菅グループの議員ですら圧倒された。
「(後継が)鳩山になったら小沢の傀儡(かいらい)といわれる。小沢がかごで、鳩山はかごの中の鳥にすぎない」
 そして、こう付け加えた。
「おれが(代表を)やったほうがいいのかな」
 しかし、菅を新代表にという声は広がりを見せなかった。小沢の意中の後継は鳩山との情報がすぐに駆け巡ったからだ。小沢が菅ではなく鳩山を選んだのには伏線があった。小沢の秘書・大久保が起訴される直前、菅は小沢に「選対本部長をやってはどうか」と、暗に代表辞任を促していた。小沢の胸には、この一件が菅への強い不快感となって刻まれていたのだ。
 小沢は短期決戦のシナリオを描き、辞任表明から五日後の十六日土曜日には新代表選出という日程をすでに決めていた。小沢と距離を置く議員の間からは、副代表・岡田克也の待望論が公然と出始めていた。岡田には投票までの時間を与えたくない。週末のテレビの討論番組で「岡田VS鳩山」を何度も繰り返されたら、鳩山には不利に働くとの読みがあった。また投票権は衆参の国会議員にだけ与え、地方の党員やサポーターには投票権を与えない方針も決めた。世論調査では鳩山を上回る人気の岡田だけに、総選挙の顔として一気に岡田支持の流れができてくる可能性を恐れたのだ。
 辞任表明翌日の十二日、小沢は党本部で開かれた役員会で頭を下げた。
「三年間、ふつつかな私にご支援をいただき、心から感謝を申し上げます」
 しかし、しおらしさを見せたのはここまでだった。小沢執行部から選挙日程と投票資格が示されると、“反小沢”の議員から異論が噴出した。広報委員長・野田佳彦、国対委員長代理・安住淳、政調会長代理・長妻昭、同・福山哲郎が「党員やサポーターにも投票資格を与えるべきだ」と主張すると、小沢は周りにもはっきりと聞き取れる声で、四人を恫喝した。
「四人はいつも反対、反対って。最後くらいいうことをきいたらどうなんだ。野田、安住、長妻、福山は“何でも反対組”だ」
 名指しで言い放ち、鋭い視線を突き刺した。“剛腕小沢”の復活だった。
「毎度、お騒がせしております。小沢一郎です」
 五月十三日、小沢は長野県飯田市にいた。東京にいれば裏で動いていると勘繰られるからと、地方行脚を再開したのだ。衆院選の新人候補・加藤学の応援で、小沢はお決まりの挨拶を述べた後、「政権交代を実現して、官僚政治に終止符を」と訴えた。
 翌十四日には、岐阜県多治見市へ。元郵政官僚の新人・阿知波吉信の応援に入ったが、乾杯まで待てず、予定を切り上げて東京へ戻ると、小沢は個人事務所にこもる。自ら電話で多数派工作を展開するためだった。「岡田の追い上げがきつい」。側近からの電話連絡に自ら腰を上げざるを得なかったのだ。結局、小沢は五時間あまりにわたって、自ら受話器を握り続けた。
 さらに鳩山陣営は「鳩山代表なら岡田は幹事長に起用」との情報を流し、鳩山代表の流れでも致し方ないとの空気を醸成させた。
 代表として最後の日となった十五日夜、東京・赤坂の地中海料理店「月の市場」。小沢は秘書ら事務所スタッフをねぎらう気遣いをみせた。献金事件が明るみにでてから、初めての機会だった。小沢はビールを片手に「いろいろみなさんにも苦労をかけた」と短く述べただけだが、翌日の代表選への自信はにじみ出ていた。
 十六日未明時点で、ANAインターコンチネンタルホテル東京三十六階に設置された岡田選対の票読みは「鳩山一〇一、岡田九三、不明二七」。衆院ではやや優位にまで浸透したものの、参院では約三十票の差が埋まらないとの分析だった。岡田からすれば、前原誠司を当選させた〇五年の代表選と同じく、投票直前の候補者演説によって劣勢を覆すしか、もはや道は残されていなかった。当時、前原は中学時代に裁判官だった父を亡くした過去に触れ、「高一から奨学金を受け取り、大学も奨学金で勉強させていただいた。誰でもチャンスをつかめる社会にする。人に温かみのある政治が必要だ」と、訴えた。議員の心を捉え、前評判を完全に覆して、僅か二票差で優勢だと思われた菅を破ったのだ。
 そして東京・虎ノ門のホテルオークラを舞台にした民主党両院議員総会。今回も、前評判を覆すドラマを岡田は目論んでいた。
「いま求められていることは、新しいリーダーの下で新しい民主党を始めることだ。岡田民主党でなければ、政権交代は実現できない」
 渾身の気持ちを込めた言葉は、所属議員に響いたかに見えた。岡田もこの瞬間には手ごたえを感じ取っていたはずだ。しかし、後から演説した鳩山もキレを見せた。
「天下を取ることは小事に過ぎず。愛を貫き、背筋を伸ばすことのほうが大事なのです」
 岡田が不運だったのは、この後さらにディベートの時間が三十分あったことだ。司会の白鴎大学教授・福岡政行の間延びした采配に、場の緊張感がゆるんでいくのを肌で感じ取っていた。岡田にとっては大きな誤算だった。
「総投票数二二〇、鳩山由紀夫一二四票、岡田克也九五票」
 サプライズはなかった。

■選挙の実権はどちらに
 新代表に就いた鳩山は早速十六日夕、岡田の携帯を鳴らし、執行部入りを打診した。岡田は「新体制で世論の評価が決まる。拙速でなく、慎重にされた方がいい」とだけ答えた。岡田が「権限のない幹事長ならやっても仕方がない」と言っていることを聞いていた鳩山は、一定の手ごたえを感じつつ、ひとつくぎを刺した。
「郵政民営化の件は大丈夫ですね」
 国民新党と共闘する民主党は党として民営化見直しの決定をしており、民営化論者である岡田が火種になりかねなかったからだ。実は、三日前の早朝五時、米国出張中の国民新党代表代行・亀井静香から国際電話で「原理主義者の岡田(の幹事長起用)はだめだ」と横やりが入っていた。岡田は鳩山に「それは大丈夫です。党の決定に従います」としながら、逆に「小沢さんをどうされるつもりですか?」と聞くことを忘れなかった。鳩山にとっても、新体制で小沢をどう処遇するかが最大の関門だった。
 翌十七日午後五時過ぎ、鳩山はホテルニューオータニの一室で小沢と向き合った。
「総選挙対策の責任者をお願いしたい。勝利に導いてほしい」
「私に候補者の公認、選挙資金を任せていただけるなら、やらせてもらう」
 鳩山は「それならこの場で、はっきり決めましょう」と、岡田の携帯を鳴らした。「正式に幹事長をお願いしたい。小沢さんには選挙を取り仕切る代表代行をお願いします」と告げたうえで、小沢に電話を渡した。電話をつないでの、事実上の三者会談が詰めの協議の場となった。岡田も、小沢院政の批判をかわすためには小沢を役につかせた方がいいと考えて、最後は折れた。
「公認や選挙資金の権限に自分がこだわるわけではない。私も(幹事長として)、意見は言わせてもらいますから」
 十九日夜、東京・赤坂の四川飯店。代表代行に就任した小沢を鷲尾英一郎ら衆院一年生議員が囲んだ。六十七歳の誕生日を目前にグッチのネクタイを贈られた小沢は、ビールを片手に上機嫌でテーブルを回り、檄を飛ばした。
「八月のお盆前には総選挙があるだろうから、とにかく大衆の中に入っていけ」
 一方の岡田も元気だ。これまで自らのグループを作ってこなかった岡田だが、陣営の打ち上げとなった二十日のホテルニューオータニには、五十人を超える議員が集まり、「次(の総理)は岡田だ」という声がとんだ。
 鳩山が掲げる「挙党一致」「総力戦」の水面下で、小沢と岡田の綱引きも始まろうとしている。
■麻生が逡巡する理由
 鳩山民主と対する麻生。小沢辞任直前に行われた五月のNHKの世論調査では、内閣支持率が三五パーセントにまで上昇していた。一時は自粛していたホテルのバー通いも復活し、連休前には「総選挙で麻生と小沢、いずれが負けても大連立の密約がある」との怪情報も出回り、麻生は「主導権は我にあり」と信じて、葉巻をくゆらせる表情にも余裕が戻っていた。
 小沢が辞任を表明した後も、後継と目される鳩山に「小沢傀儡」のイメージがつけば、主導権を握り続けられると考えていた。五月十二日に、官房副長官・鴻池祥肇が連休中に人妻と不倫旅行に出掛けていたというスキャンダルが発覚しても、麻生はどこ吹く風だった。観念して緊急入院した鴻池から辞任の申し出があった時も、「厳重注意でいい」と切り抜けようとした。世論の厳しい反応が政権を直撃することを恐れた官房長官・河村建夫が、「ここは泣いて馬謖を斬るということです」と説得して、結局折れた。それでも、翌十三日、麻生は国会内で記者団に鴻池の任命責任を問われて、「健康まで任命責任になるのか」と白を切った。
 緊張感に乏しかった麻生も、民主代表選後の世論調査の結果を見てさすがに凍りついた。十八日、各紙の朝刊に、麻生よりも鳩山が首相にふさわしいとの数字が出たのだ(朝日新聞では、麻生二九%対鳩山四〇%)。代表選で予想通り岡田が敗れ、ホッとしていた矢先だけに、麻生は我が目を疑った。
 自民党総務会長・笹川堯は「新装開店した店にお客が集まるのは当たり前だ」と呟いたが、その言葉に力はなかった。一方、麻生を気遣う前首相・福田康夫は、官房長官の河村を議員会館の自室に呼び入れて、「官邸では感じにくいかもしれないが、民主党への期待感が戻っている。引き締めてかからないと危ない。油断しないほうがいい、と総理に伝えて」と助言した。
 西松事件発覚以降、遠のいていた「政権交代」の四文字が俄かに現実味を帯び始めてきた。そうした最中に行われた党首討論で、鳩山はさらに点数を稼いだ。
「ちょっとこれでは総選挙を仕掛けるという感じではないな」
 参院第一委員会室を後にする自民党議員からは、そんな声が漏れた。
 それでも麻生は努めて平静を装う。
「麻生は首相でいることを、楽しんでいるのだから仕方がない」と周辺は言う。首相としての麻生が最も引き締めた表情をつくるのは、内奏に向かうときだと周辺は見る。内奏は、首相がときのテーマについて天皇陛下に報告をする行事だが、当然ながら内容は一切、表に出ることがない。
 官房副長官の交代劇があった十三日にも、麻生は宮中に向かった。首相に就任してから六回目の内奏で、通例三十分程度だが、この日は一時間にも及んだ。そのため、「衆院解散の御名御璽(ぎょめいぎょじ)を頂くタイミングについても話が及んだのではないか」との憶測も呼んだ。
 麻生にとって首相を続けるための条件は、総選挙で与党過半数を獲得することだ。しかし自民・公明で過半数が得られるメドは依然立っていない。それどころか、民主党が代表選から一週間後の週末に極秘で行った選挙情勢調査で「民主党が単独過半数をうかがう勢いという結果が出た」との情報が官邸に入るや、麻生は蒼ざめた。これでは伝家の宝刀も抜くに抜けない。
 衆院議員の任期も残り三カ月を切ったいま、七月十二日投開票の東京都議会議員選挙とのダブル選挙を見送るなら、投票日は八月上旬か末かの選択しかなくなる。もはやそれは任期満了に等しい。
 麻生が信頼を置く元首相・安倍晋三や選対副委員長・菅義偉は「内閣改造によって人心の一新を図ったうえで、都議選との同日選挙で雌雄を決するべきだ」と強く進言した。しかし、肝心の麻生は、解散はおろか、内閣改造にさえ煮え切らない。麻生が逡巡する最大の理由は、総選挙の争点設定に自信がないからだ。四年前の総選挙で、小泉純一郎は「殺されてもいい」と、渾身の記者会見で、郵政民営化のワンイシューの争点作りをやってのけた。
 その点、今回は訳が違う。民主党に勢いが復活したなかで、世襲制限や衆院定数の削減くらいでは得点にならない。政権交代への静かな、しかし確かな期待感が底流に渦巻くなかで、総選挙が「政権選択選挙」とされるのでは、勝ち目はない。なんとか景気の回復を本格軌道に乗せ、経済の再生を図ることで、「政権担当能力を見てほしい」というのが麻生の本音だが、景気が上向くまでの道程は遠く時間が足りない。
 有権者の視線が厳しさを増す中で、一カ月後に迫った都議選が、当面の政治決戦の場となる。都議選はしばしば次の総選挙を占う先行指標となってきた。総選挙まで間もないこの時期の選挙は間違いなく、総選挙の結果を先取りするものとなるだろう。ここで自民党が大敗すれば、「麻生では戦えない」との声が再び強まり、九月末の総裁任期切れを前に総裁選の前倒しを求める声が噴き出す可能性もある。
 都議選の告示は七月三日。文字通り、暑い夏の陣の幕開けとなる。(文中敬称略)

0 件のコメント: