2009年1月16日

赤坂太郎 文藝春秋12月号

深層ドキュメント 麻生が「解散先送り」を決意した夜
(http://www.bunshun.co.jp/mag/bungeishunju/akasakataro/0812.htm)


批判の多いホテルでの会食。そのとき、麻生はある人物を招いた――

 君子豹変す、と言うなら、その夜の首相麻生太郎はまさにそれだった。

 残暑の余韻も消え、湿った秋の夜風が吹き込む十月二十六日の日曜日の午後八時すぎ、東京・紀尾井町のグランドプリンスホテル赤坂。中国料理店「李芳」で、コース料理を食べ進める首相秘書官らを尻目に、麻生はビールも口にせず、焼きそばだけ頼んで想いにふけっていた。

 いよいよ伝家の宝刀である解散の剣を十月末に抜くか否か。「十月三十日総選挙」の真偽に永田町の関心は集まるのに、その判断を側近にさえ気取らせない風である。前日まで中国・北京で金融危機をめぐり各国のトップと渡り合った第七回アジア欧州会議(ASEM)首脳会合の余韻にひたるでもなく、その日午後、東京・秋葉原の街頭演説で「経済とか外交、これは麻生太郎がいま最も使える政治家だとオレは思っている」と吠えた熱狂も忘れたかのような静かな佇まいであった。

「お二人がつきました」。午後九時すぎ、別の秘書官から携帯電話に連絡が入る。麻生は総理番記者に気づかれないようエレベーターに乗り込むと、階上のスイートルームに向かった。

 待ちかまえていたのは公明党代表太田昭宏と幹事長北側一雄だった。週前半から何度も頼み込み、ようやく実現した首相との極秘会談である。ホットコーヒーがサーブされるやいなや、二人は必死の形相で早期解散を説いた。

「自民党があえて首相交代までやったのは、総裁選後すぐの解散を狙ったからでしょう。ここで解散しなければ、総選挙を断行できない総理だと言われる。野垂れ死になってしまう」

「十二月になれば、中小企業の倒産が相次ぐかもしれない。解散先延ばしは絶対に避けるべきだ」

 だが麻生は沈黙を貫き通した。解散できる環境はそのつど整える。ただ断行するかどうかは自分ひとりで最後に決める。それでなければ、とくに公明党・創価学会の圧力に屈したとの印象を残せば、民主党代表小沢一郎との乾坤一擲の決戦を勝ち抜くことなど望み得ないではないか。

「また、話しましょう」。小一時間の会談の最後、二人の顔に失望があらわになるのを見つつ、それだけ言って麻生は立ち上がった。ひと口も飲まなかったコーヒーは冷め切っていた。

 国内政局より国際政治と金融危機対応を優先する、つまり解散先送りに麻生の真意があることを太田と北側は痛切に思い知らされた。加えて前首相福田康夫から麻生への交代を後押しし、十月解散へのレールを敷いたつもりだった連立与党の首脳陣さえ入り込む余地のないところまで、解散権を掌に握り固めた麻生の豹変をまざまざと実感させられたのだった。

「……それでも十一月総選挙の体制を解くわけにはいかない」。会談の翌日夜、北側らは創価学会幹部にそう報告するのが精いっぱいだった。

■「話は全然変わる」

 もとより政権発足前後の麻生はそうではなかった。

 自民党総裁選に突入以降、麻生は、側近の国対委員長大島理森や総務省から首相秘書官に抜擢することになる岡本全勝ら数人のスタッフと、総裁選出の受諾演説にはじまり、組閣名簿発表時の記者会見要領、所信表明演説から『文藝春秋』に寄稿する手記に至るまで同時並行で原稿づくりを進めた。

「おい、戦後、首相が所信ないしは施政方針演説で冒頭解散を明言した例はあるか」。演説と手記の草稿を手に麻生がそう尋ねたのは総裁選終了間際のことだ。岡本らが調べると、偶然にもそれは昭和二十三年、麻生の祖父吉田茂の第二次内閣に前例があったというオチがつく。この時点で麻生が冒頭解散を見定めていたことは間違いない。

 その所信演説で小沢に向け内政・外交の主要課題の賛否をただす異例の戦法に出、手記の最終チェックも終えた九月二十九日深夜。東京・神山町の自宅書斎にいた麻生の携帯電話が鳴った。北側からだ。「補正予算案の審議に持ち込まれたら、スキャンダルを抱える閣僚が狙い撃ちにされ、ずるずる民主党ペースにはまり込みますよ」。おそらくは元公明党委員長矢野絢也の証人喚問を恐れてではあったろうが、冒頭解散を念押しする忠告に対し、その夜の麻生は多弁であり、融和的だった。

「心配しなさんな。これから米国で金融安定化法案が成立していく。日本は我々の補正予算だ。日米協調で世界の金融危機に対抗していく時に、民主党は反対するのか、という戦法でいく」

 早ければ十月三日の代表質問終了直後、遅くとも補正予算審議の冒頭には、解散を断行するという意味だった。だがその数時間後、世界経済は米国発で暗転する。

 予想に反して米議会下院が、金融機関から不良債権を買い取る制度を盛り込んだ金融安定化法案を否決し、ニューヨーク株式市場はダウ工業株平均が前週末比七七七ドル安と史上最大の下げ幅を記録した。ウォール街、そして米経済の釜の底が抜けたのである。

 三十日早朝、外務省出身の首相秘書官山崎和之からの電話で起こされた麻生はすぐ指示を飛ばした。

「これで話は全然変わる。米議会が改めて金融安定化法案を成立させるのは一週間後か一カ月後か、すぐ現地であたるんだ」

 翌十月一日。国会では小沢が麻生の質問に直接答えず、民主党の政権構想を訴える代表質問に臨んだことが注目を集めたが、麻生の関心は既にそこにはなかった。日米関係を主軸にした外交と、金融危機対策及び景気回復策。麻生が政権と自分の政治力の命綱だと演説と手記で見定めたテーマが目の前に、しかも世界規模で浮上したのだ。財政と金融を再び一体化するのかという批判を意に介さず、両方を所管させた財務・金融相中川昭一を「責任閣僚」として押し出す格好の舞台でもある。

「オレの感性は、解散より景気対策と金融危機対応だとアラームを鳴らし始めた」。その夜、麻生は側近らにそう語り、追加の第二次補正と、昨年度末に途切れた地方銀行向けの金融機能強化法の復活に向け、「頭の体操」を始めるよう指示したのだった。

 もうひとつの転機は、二日後の十月三日、側近の大島からの電話でもたらされた。

 本来なら解散日と記録されたかもしれない代表質問の最終日、民主党国対委員長山岡賢次から大島に非公式に打診があった。「補正予算は来週、衆参二日ずつであげる。関連法案を含めて民主党を賛成に回らせる。だから十月十日で話し合い解散の言質が欲しい」。

 国会対応を一任された小沢からの指示で、山岡は早期解散の確約に向けて動いたのだろう。だがその油断と隙を大島は見逃さなかった。

 大島は「解散は総理の専権だ」と山岡をかわしつつ、逆に麻生には「これはチャンスです」と指摘した。話し合い解散を匂わせ続ければ、民主党は国会で対決姿勢を貫けないはずだ。補正はもちろん、福田政権の崩壊につながったテロ新法から果ては空席の日銀副総裁の同意人事まで、果実を手にすることができるかもしれない……。

 解散戦略のふりをして、国対戦略をやればいい。瞬時に麻生はそう理解し大島に国会対応を任せた。

 翌週、新聞各紙には、補正だけでなくテロ新法の早期採決を民主党が容認したとの記事が踊った。そんなある日の衆院本会議。議場の自分の席にいた麻生は、こんこんと後頭部をたたかれて振り返った。

 元首相の小泉純一郎と森喜朗がにやにや笑いながら見下ろしていた。「おいおい、太郎ちゃん。どんな魔法、いや脅しを使ったんだい。テロ新法の採決容認まで、民主党が降りてくるなんてさ」。小泉の軽口に麻生は神妙なふりで答えた。「いいえ、誠心誠意、政党間協議をお願いしただけです」。

 麻生の耳には、十月解散を前提に最後の力を振り絞って民主党がテレビのゴールデンタイムにCMを流すという情報も入っていた。民主党に選挙資金を使い果たさせ、兵糧攻めにする。そのためにも、早期解散の風は吹くままに任せ、併せて国会で民主党がベタ降りするのを待てばいい。麻生にすれば、解散先送りの本心を気取られてはいけないのだった。

■「籠抜け」の相手

 麻生の夜の振る舞いに関しては、永田町でもメディア内でも批判が多い。毎夜、ホテルのバーで秘書官らと葉巻、ブランデーを遣る、クールダウンのために必要な息抜きだと官邸サイドから解説は出回るが、それは表向きの話である。太田、北側との極秘会談に象徴される、政府・与党の要人との密会のための隠れ蓑だけではない。日中、官邸では取れない本音の情報を集めるための「籠抜け」の場でもあるのだ。

 所信演説と代表質問を終えた日曜日、十月五日午後七時。新聞各紙の首相動静ではただ東京・内幸町の帝国ホテルとしか記されていないが、麻生は会員制バー「ゴールデンライオン」を籠抜けして階上のスイートルームに入った。相手は、日銀総裁白川方明の懐刀といわれる国際金融のスペシャリストである。同席者は、麻生の外交演説に手を入れるスタッフライターら数人だった。

 麻生はハンバーガーを頼み、同席者にサンドイッチを勧めた。コーヒーだけの勉強会だ。いきなりこう言った。

「いいか、これからオレの意向は百%、おまえから白川総裁に伝えろ。白川の意向も百%、おまえを通じてオレに伝わるようにしろ」

 活発な議論になった。米国経済は既に金融危機から景気減速が一番の問題になっていること、欧州各国は「公的資金合戦」の様相で、取り組みの遅れた国の銀行が狙い撃ちされる危険が出てきたこと、リスクマネーを欧米が大量に使っているため、日本や新興国が危機に瀕した場合は出資者候補が見あたらないこと……。

「この米国への支援が実れば、インド洋の協力に勝るとも劣らず、日本の評価につながるだろうな。だが、アイスランドがクラッシュしてドイツがあわてて預金者保護に走る時代だ。つまり、G7の大国だけの御身大切ではいかん。G7が小国も守る、そういう国際協調を日本が主導すればいいわけだな。違うか」。そうつぶやいた麻生の頭には、翌週のG8(主要八カ国)首脳の緊急声明に続き、ASEMでアジア・環太平洋諸国の連携を確認し、十一月の米大統領選直後の金融サミットで中国、インド、ブラジルなど新興国を含む「G20会議」につなげる構想が生まれた。

 他方、機動的に財政・金融政策の首相直轄チームを創設する構想も議論の俎上にのぼった。財務省と金融庁、日銀の垣根を越えた組織――「麻生版アンポン」。吉田茂が戦後復興のため活用した「経済安定本部」の略語も飛び出し、麻生は苦笑いした。「アンポンか、古い話を知ってるな」。

 十月十一日土曜日午後六時すぎ。浜松への出張のため、JR東京駅に着いた麻生だが、これもまた籠抜けだった。丸の内口から貴賓室に入った麻生が握手したのは、八重洲口からたどり着いた駐日米大使シーファーである。

 時間は三十分しかない。通訳も入れず、麻生はサシで本題に入った。

「G20構想、これはどうだ。日本の成田空港近郊でサミットを開催する用意もある」。シーファーは自分でメモを取った。

 その夜、予定より一日早く、米国の北朝鮮に対するテロ国家の指定解除が固まり、米大統領ブッシュから浜松のホテルにいた麻生に電話が入った。安倍、福田二代の内閣でさえ忌避してきた指定解除を受け入れざるを得ないのは、保守層固めを総選挙対策の主軸に置く麻生にすれば失点である。外務省の情報収集の甘さも印象づけた。だが、会談の中身はブリーフでは北朝鮮問題が中心とされたが、実は大半が金融危機対応だったのは麻生の救いだった。G20構想を麻生が電話会談で持ち出すと、ブッシュは「頭の中に入っている」と答えた。シーファーから既に早足の報告が届いていたのである。

■年末解散はあるか?

 この間、メディアの政局解説記事は麻生の豹変の真意を読み込めず迷走を続けた。曰く、自民党の独自の世論調査の数字が悪かったから解散を見送ったのだ、曰く、一日でも長く政権にいたい麻生はもとから早期解散の腹はなかったのだ、などなど。

 麻生政権誕生以来、自民党が全国規模で行った独自の世論調査は一回しかない。九月二十七、二十八日実施の分がそれで、麻生のもとには二十八日夜、選対副委員長の菅義偉が手ずから速報値のデータを持ち込んだ。

 AからCまで当選可能性がランクづけされた一覧表で、確かに当選確実とされたAからBプラスまでの選挙区は小選挙区三〇〇のうち、民主一二〇、自民八五と分は悪い。ただ、菅が強調し、麻生がうなずいたポイントは、BマイナスからCプラスまでのボーダーラインの選挙区の実態だった。

「民主支持層はほぼ九割以上が民主に投票と答え、自民支持層は五割強しか自民に投票と答えていません。つまり民主は伸び切ったが、自民はまだ伸びしろがある」。その上で自民党選対が弾いた議席獲得予想の中間値は自民二一五、民主二一四。実は冒頭解散を絶望視する数字ではなかったのだ。

 ただその後金融危機を受け冒頭解散戦略をひそかに見直し始めた麻生や菅にすれば、なお自民に伸びしろありとの観測は解散先送りの根拠にはなった。だが、これは麻生政権の情報管理の甘さでもあるのだが、当選確実圏内の数字を中心に「調査結果が悪かった」との観測がひとり歩きし、麻生が解散に尻込みしているといった解説がまことしやかに党内外に流布した。

「しばらくは全国調査はやらんでいい。調査の良し悪しで解散時期を決めるのか、と思われるだけだ。ボーダーラインのトレンド調査だけにしろ」。麻生は党選対にそう指示した。八五選挙区だけを対象に十月十八、十九日実施した調査では、CマイナスからCプラス、あるいはBマイナスに転じた選挙区が七つあった。これを好転の兆しとみるかどうかは別にして、少なくともその数字を聞いた麻生は党選対幹部にこう指示したのである。

「このボーダーの選挙区候補の年末の選挙資金手当は思い切って積み増すんだな」。年末の手当――「十二月解散、一月総選挙」の布石へ大きく舵を切ったことを示す麻生の言葉だった。

 だが、早期解散の風を吹かせて国会と政局運営の主導権を民主党から奪い返した麻生の一カ月は、小泉の言う魔法ではなく、いわば猫騙しのような初手の成功に過ぎないかもしれない。

 民主党もまた、早期解散を希う戦略を徐々に転換し、長期戦も辞さずとの姿勢を強めつつある。「金融機能強化法から第二次補正予算に向けてが国会攻防の冬の陣だ。政権を追い詰め、解散すらできない麻生の真実を国民の前にさらせばいい」。幹事長鳩山由紀夫ら国会対策の司令塔を成す面々は完全に頭を切り替えた。麻生の「魔法」の効果は既に消えつつある。

 だが報道各社の世論調査でも民主党は一向に伸びて来ない。麻生内閣の支持率同様、完全に勝ち切れる数字ではないのだ。何より九月七日時点で党が独自に実施した一九四の小選挙区調査では、優勢度がプラスの当選確実圏内に入ったのは八〇に過ぎない。とくに東京は実施した一八選挙区のうち、拮抗状態が多数を占めたものの、優勢度プラスはわずかに五だったのである。

「私と麻生首相のどちらが総理にふさわしいかは確かにダブルスコアであっちが上だが、その方が民主党が目立って、政権交代が争点になるから何の問題もない」。そう笑い飛ばす小沢も内心では党の現状が気が気でない。

 十月二十二日深夜、福岡・博多のホテル。現地の候補予定者の陣営幹部と連合福岡の幹部を相手に、小沢は、後で出席者たちが「まさに、怒髪天をつくだ。あんなに激高した小沢さんを初めてみた」という調子で吠えた。

「いつから横綱相撲をやっているつもりなんだ! もう政権交代したつもりでいるのか。あしたから五分おきに一日五〇カ所で街頭演説をやれ」

 だがその翌日、小沢はインド首相シンとの会談を体調不良を理由にキャンセルした。首相候補の「病弱」が民主党支持を弱める危険だけでなく、民主党幹部たちには別の不安が現実のものとなりつつある。

 ただでさえ解散は首相の麻生が一番都合のいい時期を見計らって打てる、政権側に有利な制度だ。針の穴を通すような細心の注意でこれからの国会を引き回さなければならないのに、ここ一番で小沢が姿を消し、連絡も取れなくなったらどうするのか。

 麻生自民も小沢民主もここまで、総選挙の勝利に万全の自信を持てないできた。麻生はひそかに十月解散戦略を豹変させてはいたが、それでなくとも早期解散の機運が急速に萎み、両党が長期戦の損得計算に頭を切り換えた根底にはその自信のなさがある。

 金融法案などで十一月国会がよほど混乱しない限り、おそらく麻生は十一月十五日から米国で行われる緊急金融サミットをこなし、十二月末まで臨時国会の会期を延長して、定額減税を盛り込んだ第二次補正の成立を狙うだろう。民主党がばらまき批判を正面に掲げて補正反対に回り、野党が多数の参院で待ったをかければ、再び十二月解散―一月総選挙の風が吹く。

 だが法人税収入の目減りで税収不足は必至の情勢であり、日本経済の減速は中小企業の倒産といった形で社会不安を増しかねない。その時、世論の批判の目は、景気対策の実があがらない麻生政権へ向かうのか、予算に反対する民主党へ注がれるのか。

 十月三十日、麻生は緊急の記者会見で「政局より政策、何より景気対策だというのが圧倒的な国民の声だ」と語り、ようやく解散先送りを認めた。

 麻生も小沢も正念場である。政権交代が実現しなければ議員辞職も辞さずと明言してきた小沢はもちろん、保守本流を自任する麻生とて、政権を失った首相・総裁として自民党史に記録されるのは許し難い。来夏の東京都議選を考えれば、年末解散を見送る場合、残るは来年度予算を無事成立させての来春か、来秋の任期満了選挙しかない。「魔法」も二度目は通じないだろうから、十二月の判断が麻生の政権の命運を握ることになる。(文中敬称略)

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