2008年9月9日

赤坂太郎 文藝春秋9月号

福田を襲う内閣改造・公明ショック
総理の求心力低下は止まらず、自公連立にも暗雲。民主に風は吹くか--
(http://www.bunshun.co.jp/mag/bungeishunju/akasakataro/0809.htm)

 「世界の福田」と呼ばれることを好んだ父・赳夫がまさかの自民党総裁選敗北でチャンスを逃したサミット議長の大役をこなし、意気揚々と帰京した首相・福田康夫を待ち受けていたのは、もう一つの外交上の懸案、竹島を中学校社会科の新学習指導要領解説書にどう記述するかという問題だった。
 愛国心教育の強化を掲げた改正教育基本法の成立を受け、竹島を「日本固有の領土」であるときちんと学校で教えるべきだとする文部科学省に対し、外務省は政府の公式文書である解説書にそんな記述を盛り込めば、韓国の反日世論が沸騰し、親日的な李明博大統領誕生で好転しつつある日韓関係が盧武鉉前政権下の冬の時代に逆戻りしかねないと待ったをかけていたのである。
 サミット閉幕翌日、福田がようやく執務室で一息ついた七月十日午後、官房長官・町村信孝が竹島問題の報告に現れた。
「ご心配をかけましたが、何とかまとまりそうです」。町村は得意げだった。日本の領土・領域に竹島が含まれる旨を記述する一方、韓国側が強く反発する「日本固有の領土」との表現は使わず、日韓の主張に相違があることも明記する線で町村は最終調整を進めていた。「なるべく韓国を刺激しないように記述する」という福田の意向にもかなっているはずだった。外相も文科相も経験し両省ににらみが利く自分が調整役でなければ、とてもまとめきれなかった。そんな自負が表情ににじみ出ていた。
「見送りという選択肢はないか、もう一度検討してもらえますか」。福田の反応は、感謝と慰労の言葉を予期していた町村にとって心外なものだった。
 福田は迷っていた。「迷っていた」と言うより、「心変わりしていた」と言う方が正確かもしれない。サミット最終日の会議の合間を縫ってセットした日韓首脳会談で、解説書に記述する方針を伝えた福田だが、米国産牛肉の輸入問題で窮地に立つ大統領から「今は時期が悪い」と言葉を尽くして懇願され、決心が揺らいでいたのだ。「日韓関係の将来を考えれば、ここで大統領に助け船を出すべきではないか。半年か一年、時期をずらすことはできないかと総理は考えたようだ」と福田に近い議員は語る。
 この間の折衝で文科相・渡海紀三朗、事務次官・銭谷真美以下の文部官僚の固い姿勢を知る町村は即座に反論した。「見送りは無理です。渡海君から辞表が出ますよ。党内も国会も大騒ぎになる」「本来は指導要領自体に盛り込む予定だったところを、新政権発足直後という事情に配慮し解説書にとどめるよう調整した経緯もありますからねえ」。福田より議員歴が長く「格上」意識の強い町村に、この問題は専門家の俺に任せておけという気持ちがなかったと言えば嘘になるだろう。たたみかけるような町村の勢いに気圧されたのか、福田はそれ以上言葉を継ごうとしなかった。

■忠誠心のない閣僚

 明確な方針を打ち出すことができないトップリーダーと、首相とも対等に渡り合おうとする忠誠心のない閣僚。存在感を発揮できない福田政権の病巣がどこにあるかを竹島問題は物語っていた。
 前首相・安倍晋三の突然の退陣を受け急遽登板した福田は、安倍が起用した十七人の閣僚のうち十五人を引き継いだ。多くの閣僚にとって恩義があるのは安倍であり、福田ではない。そして何より、内閣一丸となって目指すべき政策目標がないことが内閣の影の薄さにつながっていた。
 吉と出るにせよ凶と出るにせよ、もはや内閣改造で再起動する以外に、福田政権がジリ貧状態を脱する手だてがないことは誰の目にも明らかだった。
 とりあえず引き下がったものの、心穏やかでない福田は、文教族のボスであり日韓議員連盟会長も務める元首相・森喜朗に電話で相談した。町村派の実質的なオーナーである森なら、町村を抑え込むことも可能とそろばんを弾いたのは想像に難くない。だがプライドの高い福田は「あなたから言ってもらえませんか」とストレートに頼むことはせず、「困りました」と愚痴をこぼすのが精いっぱいだった。
 その森に翌十一日夜、町村から竹島問題決着の連絡が入った。あっけらかんと「まとまりました」と報告した町村に森は「本当にそれでいいのか」と怒気を含んだ声で問い返した。「俺が知る限り、総理の意向は違う。君の苦労は分かるが、総理が『こうしてほしい』ということを実現するのが官房長官だ。総理はきっと『何でみんな思い通りに動いてくれないのか』と思っている。渡海がどうしても辞めると言うなら辞めさせたらいいじゃないか」。前日の説明で福田が納得したものと思い込んでいた町村は、この電話で初めて福田の真意に気付いた様子だった。
 煮え切らない福田にも問題があるとはいえ、女房役の町村にしてこのすれ違いである。ほかの閣僚は推して知るべしだった。町村は「首相の意向」を盾に再調整を試みたが、渡海は「解説書の改訂は十年に一度。見送りは絶対に認められない」と頑として譲らず、表現の微修正に応じただけだった。
 限られた関係者だけが真相を知るこの一件と違い、臨時国会召集時期をめぐる公明党の抵抗は、福田の威光がいかに低下しているかを満天下にさらす結果となった。
 福田が「八月召集」を口にしたのは通常国会が事実上閉幕した六月二十日のこと。自民党代議士会で「(夏休みは)あまり長くないかもしれないが、心身を養ってほしい」と挨拶し、その意味を問う記者団に「普通は九月になってから開会ということでしょうが、若干早まるかな。こりゃどなたもそう思っていると思います」と明言した。
 無論、福田の思い付きではない。幹事長・伊吹文明と国対委員長・大島理森から、「今年の税制改正と予算編成は道路特定財源の一般財源化問題でもめる。臨時国会は十一月末に閉じ、十二月初めから党内調整に入った方がいい。十一月末までにインド洋での給油活動延長法案を成立させるには、八月下旬に召集しないと間に合わない」と聞かされていたのである。
 アフガニスタンでの「テロとの戦い」の一端を担う海上自衛隊の給油活動は来年一月十五日に再び法律の期限が切れる。延長法案成立が期限切れに間に合わず、活動に穴が空いた昨年の轍を踏んではならないというのが、福田の意向をくんだ伊吹の指示だった。国対の職人・大島が組んだカレンダーはこうだ。冒頭の政府演説と各党代表質問に一週間、予算委審議に一週間、延長法案の衆院審議に二週間、これに自然休会となる九月の民主党代表選の二週間を加えて、衆院通過までに六週間。その後、「みなし否決」規定を使って衆院で再可決、成立させるまでにさらに六十日。締めて臨時国会の会期は百日必要――。

 この八月召集案に公明党が反旗を翻したのは、福田が夏休みに入った翌日の七月十七日にグランドプリンスホテル赤坂で開かれた自民、公明両党の幹事長、国対委員長会談の席上である。八月召集を前提に「準備もあるので、そろそろ当面の政治日程について党首会談でお決めいただかないといけない」と提案した伊吹に対して、公明党幹事長・北側一雄が「うちは『八月召集でいい』と言った覚えはない。基本的に例年通り、九月召集でいいと思っている。党首会談をそんなに急いでやっていただく必要はない」と異論を挟んだ。
 伊吹はうろたえた。八月召集は福田が口にして以来、永田町でも霞が関でも既定方針とみられている。今になって覆れば、福田の沽券にかかわる。福田に言わせた自分の責任も問われる。それを百も承知で何を言い出すのか。これまで与党の結束を重視してきた「連立の優等生・公明党」の変身に、伊吹は動揺を隠せなかった。
 伊吹と北側。頭の回転の速さと気の強さで知られる論客二人は磁石の同じ極同士が反発し合うように、これまでも何かとさや当てを演じ、緊張感漂う関係は与党関係者の公然の秘密になっている。この日の応酬はその域を超え、同席した大島や公明党国対委員長・漆原良夫が口を挟めないほど激しいものになった。
「イラクと違い、アフガンでのテロとの戦いにはすべての主要国が参加している。洞爺湖サミットでも活動強化の特別声明が出た。議長国である日本が『法律の期限が切れたので引き揚げます』というわけにいかないことは、あなたもお分かりでしょう」
 給油活動延長の重要性を説く伊吹に、北側は一歩も引かなかった。
「自衛隊の海外派遣にはできるだけ多くの国民、政党の理解を得る必要があるというのが我が党の立場だ。最初から三分の二で押し切るしかないと決めてかかるのではなく、幅広く理解を得る方法がないか、真剣に検討してしかるべきだ」
 三分の二以上の賛成が必要な衆院再可決による成立には公明党の協力が不可欠。はっきりと口にはしなかったが、「再可決に協力しない事態もあり得る」というメッセージが言外に含まれていた。
 議論は平行線に終わり、伊吹の要請で会談内容を口外しないことを確認して散会したが、「下駄の雪の反乱」は瞬く間に自民党議員の知るところとなった。

■古賀は「伊吹より公明」

 北側は創価高、創価大の卒業一期生で、同大初の司法試験合格者という勲章を持つ名誉会長・池田大作の覚えめでたい公明党のプリンス。その発言は党と学会の意向を体したものだった。党対党の対立に発展することがないよう、北側は前もって自民党四役の選対委員長・古賀誠、総務会長・二階俊博ら公明党と関係の深い実力者への根回しを済ませていた。
 真っ先に呼応したのは参院議員会長・尾辻秀久だった。二十二日の記者会見で「参院としては、そんなに急いで召集ということもないんじゃないかと言っている。今の計算は相当、衆院で余裕を見ている。もう少し後ろにずらしてもいい」と九月下旬召集が妥当との認識を示した。翌二十三日には満を持して古賀が都内の講演で八月召集に異論を唱えた。「確かにインド洋の給油は極めて大切な国益にかかわることだが、どう考えても今、与党内に温度差があり、国論も二分されている。ただ単に臨時国会で成立させるために逆算して開会を決めるというのは慎重であるべきだ」。
 どちらの党の幹部か分からないような発言の背景には、国対経験豊富な古賀が「私も国会を知らないではないが、幹事長から相談を受けたことは一度もない」と周囲に漏らすように、官邸にだけ目を向け、役員会メンバーに根回しせずに事を進めてきた伊吹への不快感があるのは間違いない。
 だが、それ以上に苦戦確実の次期衆院選への危機感が、頼みの綱である公明へ学会へと草木もなびく現象をもたらしていた。伊吹より公明、給油より選挙だった。
 公明党が優等生を返上したのも、同じく選挙への危機感からだ。二度にわたって行われた古賀との会談をはじめ、一連の会談での北側の説明にそれは表れている。
 名誉会長の大号令で、来年七月の東京都議選は公明党・創価学会の総力を挙げた選挙になる。全国から学会員が上京し、つてを頼って選挙運動を繰り広げる。次期衆院選と都議選の時期が接近すればするほど、衆院選での集票能力は落ちる。考えられる解散時期のうち、影響がないのは来年一月まで。だが、解散直前に給油延長法案を衆院再可決で強引に成立させるようなことをすればその限りではない――。
 公明党がギアチェンジしたのは洞爺湖サミット後。内閣支持率がほとんど回復しなかったのを目の当たりにしてからだ。このまま伊吹が下絵を描いた政治日程に乗れば、自民党と心中する羽目になりかねない。公明党にすれば、八月召集反対は底なし沼から脱する逆噴射だった。
 公明党が浮き足立った理由がもう一つある。元党委員長・矢野絢也の参考人招致問題だ。矢野は「評論活動をやめるよう強要された」として創価学会を相手に損害賠償請求訴訟を起こし、「国会に参考人として呼ばれれば喜んで出席する」と公言していた。激突型の国会になれば、野党が多数を握る参院で矢野招致が実現しかねない。名誉会長が招致される“悪夢”もあり得ない話ではない。その懸念も国会対応を及び腰にさせていたのである。民主党代表・小沢一郎が地元・岩手を離れ、公明党代表・太田昭宏の東京十二区から出馬する可能性を依然におわせていることも不気味だった。
 そこに降って湧いたのが、民主党副代表・岡田克也の代表選出馬情報である。それまでも小沢三選が確実視される中で、党内では福田と小沢の「どちらが首相にふさわしいか」という世論調査結果が波紋を広げていた。政党支持率で自民党より優位に立っても、この質問ではほとんどの調査で小沢が後塵を拝している。小沢の不人気が民主党の足を引っ張っている構図だった。清新な代表に替われば、支持率が跳ね上がるのではないか、そうした待望論があった。かねてより、「長男(岡田)が出てくれるのが一番いい」と自らを民主党の次男坊になぞらえ、岡田を「意中の人」と考えていた元国対委員長・野田佳彦をはじめ、前代表・前原誠司らニューリーダークラスは、「熟考中」の岡田に対し、水面下で出馬を促してきた。その後、岡田は自らの出馬については消極的な姿勢を示したが、若手の間には、野田や元政調会長・枝野幸男を担ぐ動きもある。九月二十一日の投票日に向けて白熱した論戦が展開されれば、福田政権はますます霞んでしまうだろう。
 KO寸前の福田にとって内閣改造は、苦し紛れのファイティングポーズに過ぎないのだ。自らの手で解散・総選挙ができる保証はどこにもない。実際、公明党はポスト福田の最有力候補である前幹事長・麻生太郎との連携を強めている。猛暑の中、福田の暗中模索の日々が続く。(文中敬称略)

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