2008年5月27日

赤坂太郎 文藝春秋5月号

「五月退陣」か 福田政権の断末魔
民主・小沢に見捨てられ、党内実力者も敵に回し……ついに万事休すか
(http://www.bunshun.co.jp/mag/bungeishunju/akasakataro/0805.htm)

日銀総裁が戦後初の空席に追いやられる異常事態。ガソリン値下げ問題を巡る混乱。首相・福田康夫を襲った「四月危機」に政変を告げるきな臭さが立ち込めていた。
「見直すべきは大胆に見直す決意をいたしました。道路特定財源の改革案を国民の皆様にご説明させていただきたい」
 三月二十七日夕、首相官邸。福田は真っ赤な緞帳を背に緊急記者会見に臨んでいた。ガソリン税の暫定税率の期限が三十一日に迫り、二○○八年度に即時廃止・値下げを唱える民主党に対する新提案は「道路特定財源制度は今年の税制抜本改正時に廃止し、○九年度から一般財源化する」だった。
「ええッ!」。会見に先立つ午後。長男の政務秘書官・達夫が自民党役員会に新提案を届けた途端、室内は騒然となった。幹事長・伊吹文明は「党内手続きを取っておりませんね。政府の考えをお示しになった」。選挙対策委員長・古賀誠は「首相を支える姿勢は変わりないが、中身はびっくりした」。総務会長・二階俊博は「どうせ民主党は乗ってこないのだから、何を提案しようと同じだ」とつぶやいた。福田は古賀、二階ら道路族有力者の離反を招きかねない危険を冒しながら、民主党案には「暫定税率廃止は現実を無視した議論」となお一線を画した。民主党代表・小沢一郎は二十八日の会見で「(福田と)何回会ってもいいが、かみ合わないでしょう」と突き放した。腹背に敵を抱え「私は決してあきらめていない」と力んで見せる宰相には悲壮感すら漂った。
 福田にはまるで似合わないトップダウンの演出。いくつかの伏線があった。
「不在其位 不謀其政(その位にあらざれば、その政を謀らず)」
 二十六日夜、元首相・小泉純一郎は元自民党幹事長の中川秀直と武部勤、二階との会合で自らこうしたためた書を披露した。「論語」の一節だ。「責任ある立場にない者があれこれ言うべきではない」。小泉はこう解説した。「責任ある首相が道路財源問題で修正を決断したのなら、我々はそれをしっかりサポートしなければならない」
 裏返せば福田自身が「宰相の責任」を果たせ、との強烈な檄だ。小泉の意を汲んだ中川は福田に接触、「一般財源化で改革断行の姿勢を示す」「強行策は避け、民主党と話し合う姿勢を貫く」などのメッセージを国民に発信するようひそかに進言した。
 これより前の二十日。参院で主導権を握る民主党の二度の拒否権行使でこの日から日銀総裁が不在となった。春分とは思えぬ氷雨が官邸の屋根を叩き、沈鬱な空気を鈍色の空が一段と重苦しくした。福田が休日返上でまず呼びこんだのは、知恵袋として頼る前官房長官・与謝野馨だった。
「日銀人事、大変なことになりましたね」
 そう気遣う与謝野に福田は「一般財源化、どうだろうか?」と相談を持ちかけた。前日夕、政調会長・谷垣禎一らに将来の一般財源化も視野に民主党との修正協議に入るよう第一弾の指示を出したばかりだった。
 かねて一般財源化を唱える与謝野は「合理的な考え方だと思います」と背中を押した。暫定税率の扱いを巡っても「どうせなら原油高対策もセットで考えてはどうですか」と思い切った事態打開策の「頭の体操」をして見せ、福田も思案を巡らせた。
 与謝野と入れ替わりに現れたのは中川だった。福田を送り出している最大派閥の町村派で「領袖」意識を日に日に強め、やはり宰相の相談役を自任して頻繁に訪れる。
「日銀総裁の空白はなるべく短い方がいい。できるだけ早く次の提案をすべきです」
 中川は福田にこう説き、「民主党は財務省出身者は次官経験者以外も含めて全部ダメ、ではなさそうです」と独自の情報収集の感触も改めて伝えた。
 与謝野と中川を休日に続けざまに呼んだこと自体が非常事態を物語っていた。ただ、この二人すら福田とぴったりとは言い切れなかった。与謝野の訪問は五十日以上前の一月二十八日以来。不倶戴天の中川の側近、元金融相・伊藤達也を福田が社会保障担当の首相補佐官に突然、抜擢したのを危ぶんで「呼ばれれば喜んで出向くが、頼まれもしないのに自分からは行かない」と官邸との間合いを微妙に測り直していた。
 財務省嫌いの中川も日銀人事の核心の相談は受けていなかった。福田が総裁候補に本命の前副総裁・武藤敏郎、さらに国際協力銀行総裁・田波耕治と財務(旧大蔵)次官経験者を相次いで提示し、民主党にことごとく蹴られたのを見て、盟友の慶大教授・竹中平蔵にあらぬ疑念を思わず口走った。
「これは財務省と小沢が裏で手を組んで福田倒閣に動いているんじゃないのか!」
■福田の三つの誤算
 実は福田は一月末には「日銀総裁の方は何とかなりそうだなあ」と周辺に漏らしていた。それが二月に入って三つの大きな誤算や読み違いが重なり、情勢は一変した。
 第一の誤算。二月一日、元幹事長・加藤紘一と元副総裁・山崎拓が官邸を訪れた。超党派議員団で韓国を訪問、新大統領・李明博と会談するため福田の言づてを預かる目的だったが、ここで加藤が仕掛けた。
「日銀総裁で財務省と日銀のたすき掛け人事はもうやめるべきだ。民間人がいい。ここは奥田碩前日本経団連会長しかいない」
 福田は確たる返答はしなかったが、はっきり否定もしなかった。奥田も一案ではあったし、「お話は承った」と頷いただけだったが、加藤は手応えありと決め込んだ。
 十日、加藤と山崎は民主党内で小沢批判の急先鋒である元政調会長・仙谷由人、元幹事長代理・枝野幸男らとソウルへ飛んだ。加藤は「奥田総裁」構想を仙谷に耳打ちし、「福田首相も了解している」と囁いた。
 昨秋の大連立工作に怒髪天を衝(つ)いた仙谷は、福田が道路財源の「つなぎ法案」を土壇場で取り下げたのを見て、両党首のもたれ合い再燃を疑った。仙谷や枝野にとって財政・金融の分離は結党以来の「党是」に等しい。小沢が「武藤総裁」人事を奇貨として再び大連立に傾けば、九月の党代表選挙をにらみ小沢下ろしに動く腹だった。
 そこへ自民党から飛び込んできた「奥田総裁」構想は非小沢グループを一気に勢いづけた。十日、仙谷はソウルで同行記者団に気炎を上げた。小沢への宣戦布告だった。「福井俊彦総裁、武藤副総裁の過去五年間の金融政策を総括すれば、武藤氏を続けて総裁に押し上げるという論理にはならない」
 仙谷は党長老の税制調査会長・藤井裕久に「奥田総裁」構想を伝え、藤井は旧知の自民党ベテラン議員に「福田もOKした話」と触れて回った。非小沢系を中心に民主党内に広がった根拠の薄い期待感が「武藤総裁」への心理的ハードルを余計に高くした。
小沢は「武藤総裁」容認の余地を残せるよう、慎重な発言を続けていた。十二日の会見では「現実に一千兆円にも上る国債を発行しており、金融政策と密接な関係もある。財金分離という論理だけで片づけるものではないという意見もある」。
 非小沢グループは不穏な動きをエスカレートさせた。早大教授・北川正恭が「次期衆院選では自民、民主両党ともまっとうなマニフェストを掲げて政権の選択肢を示せ」と旗を振り、賛同した超党派議員が立ち上げた「せんたく議員連合」が拠点である。
 二十日朝、都内のホテルに各党発起人が集まった。民主党は広報委員長・野田佳彦、前政調会長・松本剛明、枝野らが勢ぞろい、「反小沢の梁山泊」の様相を呈した。姿こそ見せなかったが、代表経験者でポスト小沢をうかがう岡田克也と前原誠司までが顧問に名を連ねた。「自民党の顧問に小泉を担ぎ出そう」。小沢の大連立に対抗するこんな構想すら浮き沈みした。小沢包囲網が狭まり始めていた。うかつに福田と談合に動けば、小沢下ろしの口実を与える――小沢は党内基盤の揺らぎを実感し、身構えざるを得なかった。「民主党内政局」が日銀人事とリンクした。第二の誤算だった。
 十九日のイージス艦の漁船衝突事故などで民主党は福田政権に拳を振り上げ、〇八年度予算案の衆院通過に向けた国会の地合いが怪しくなった。福田は日銀人事案の提示をためらい、大事にじっくり運ぼうとした。「何とかなりそうだ」という感触がまだ尾を引いていたからだ。
 福田は日銀人事の前に、まず予算案の年度内成立を確実にするための衆院通過を急ぐ選択をした。これが第三の誤算で、かつ、致命傷となった。二月二十九日夜、民主党などが猛反発、欠席のまま与党は予算案を衆院本会議で強行採決した。翌三月一日、小沢は地元岩手県へお国入り、盛岡市のホテルで開いた党県連大会で首をかしげた。
「一週間予算成立が遅れても、国民生活には支障をきたさない。なぜ強行採決しなければならないのか。私の常識では不可解だ」
「不可解」の一言に福田との決定的なすれ違いがのぞいた。福田は道路財源の将来の一般財源化には早くから柔軟だった。だが、修正協議は民主党が主導する参院を舞台とし、時間がかかると決め込んでいたため、予算案も早く参院に送ろうとしたのだ。
 小沢にとって、福田が大幅譲歩して予算修正まで踏み込むことが話し合い路線に乗る大前提だった。予算案に民主党案を「丸のみ」に近い形で反映させ、根幹部分の共同修正で〇八年度からの実現を勝ち取れば、賛成に回れる可能性も秘めていた。政権の政策を体現する本予算への賛成は事実上の与党化宣言に等しい。これこそ「政策の実現」を口実に党内の反発を抑え、大連立に道を開く最後のウルトラCだった。
 予算修正は衆院でしかやりようがないのに与党は参院に舞台を移してしまった。福田の方から大連立の可能性を断ち切った。小沢はそう受け止めた。だから「不可解」だったのだ。党内基盤はガタつき、福田は打てども響かない。手詰まりの小沢は代表の座を守る方を優先し、福田への未練を捨てて対決路線に回帰せざるを得なかった。
「政府・与党との信頼関係が現時点で完全に失われた」。小沢は一日の会見で、過去にない強い調子で福田政権を非難して見せた。「福田内閣を見ていると危うい。国民のためにも早く総選挙をした方がいいし、可能性は十分ある」。
■五月解散シナリオ
 民主党の審議拒否で参院予算委員会の空転が一週間続いた、七日。福田は連絡が途絶えた小沢の変心をつかみきれないまま、丸腰で武藤総裁案を国会に提示した。
「何だって! 党首会談で合意するよう、裏で話がついているんじゃないのか?」
 五年前、最も信頼した財務官僚の武藤を総裁含みで副総裁に任命したのは小泉である。財務省から「実は国会同意の段取りが心配で……」とご注進を受け、天を仰いだ。参院は十二日、武藤総裁案を否決した。福田は「一週間前には小沢は『武藤で構わない』と言っていたんだ」と周辺に憤怒をぶちまけたが、後の祭りだった。
 小泉は十三日、チルドレン、片山さつきが地元浜松市で開いた国政報告会に乗り込むと、「首相も小沢代表も胸襟を開き、譲り合う所は譲り合い、話し合ってほしい」と手遅れなのは分かっていながらも党首会談を促した。腹心だった元秘書の飯島勲は駒沢女子大客員教授に就任、事務所には戻らない。情報ルートが細り、後手を踏んだ。
 その前夜、小沢は都内の中華料理店にシンパの若手議員を招集した。「福田政権は不可解だ。何を考えているのかよく分からない」と繰り返すと、呟いた。「五月解散がありうる」。そのシナリオはこうだ。
「福田にはもはや解散に踏み切るパワーがない。追い込まれれば内閣総辞職するかもしれない。新首相になっても安倍晋三、福田から三代続いて衆院選の洗礼を経ていないのだから、早晩、解散せざるを得ない」
 四月二十九日にはガソリン税の暫定税率を与党が衆院で再議決して元に戻す「増税」の環境が整うが、二十七日投開票の衆院山口二区補欠選挙で民主党が勝てば、福田の命脈はそこでほぼ尽きる。それでも「増税」で押し切るなら、参院で首相問責決議を突き付け、退陣に追い込む。新首相は「ご祝儀相場」を当て込んで五月解散に打って出て、いよいよ天下分け目の決戦となる――小沢は福田倒閣を宣言したのである。
 なおも福田の迷走は続いた。「福井続投」は民主党が門前払い、「奥田総裁-武藤副総裁」案は奥田が断った。秘書官も外し、携帯電話でコソコソ集めた「武藤以外なら誰でもいい、と非小沢系幹部が確約した」「参院で国民新党、無所属+民主党からも造反が出る」など断片情報に依存した末路が、財務省さえ「ひいきの引き倒しだ」とあ然とした十八日の「田波総裁」案だった。
 ポスト福田政局は臨戦態勢に入った。一番手の前幹事長・麻生太郎擁立に水面下で動く安倍を元首相・森喜朗と中川はしつこく口説き町村派に復帰させた。若手に影響力を保つ安倍にタガをはめる一方、派閥丸ごと麻生を担ぐ選択肢への布石でもある。
 古賀派と谷垣派は十三日、「中宏池会」への合流総会を催した。会長は数を固め政局のキャスチングボートをうかがう古賀。安倍と気脈を通じ、麻生も軍師と頼む選対副委員長・菅義偉には「誰も総裁候補を谷垣に決めたなんて言っていない。誰を担ぐかはその時の話だ。俺だって麻生を担ぐかも知れないんだから」と気配りも見せる。
 一月、麻生と中川の手打ちを仲介した菅は、近年、折り合いの悪い麻生と古賀の狭間にも立つ。この和解を演出できるか否かが、麻生の政権取りへの道筋を固めるうえでカギに浮上した。もう一人、じわりと擁立論が広がるのは与謝野だ。その与謝野には、安倍改造内閣で幹事長と官房長官で連携した誼(よしみ)で麻生自身が「もう一度、組もう」とけん制と懐柔に躍起になっていた。
 三月中旬の党代議士会。着席した古賀に麻生がにこやかに歩み寄り、話しかけた。座ったまま幾度も頷く古賀。麻生が離れ、次に与謝野が隣に来て挨拶すると、古賀はすっくと立ち上がり、深々と一礼して見せた。微妙な人間模様と思惑が交錯した一瞬。神経戦は本格化している。(文中敬称略)

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